傷つきやすくなった世界で

今日もランチはゆず屋製麺
毎日食べても飽きない、美味しいうどんだ。


しかし、今年は正月だというのに
道行く人の顔に明るさがない。
なんとなく不安で...
毎日ながれる暗いニュースに
自分まで不幸になってしまったような...
そんな錯覚もあるように思う。
この数カ月の不景気以前から
この国はなんとなくギスギスしている。
街ゆく人の顔も険しいように思う。


そんなことを感じていた矢先、たまたま本屋で立ち読みしていてこの本に出会った。
石田衣良...最近テレビでもよく見るが、一か月くらい前に雑誌の対談を読んで、なにか通じるものを感じた。
傷つきやすくなった世界で 日経プレミアシリーズ
R25というフリーペーパーに連載されたエッセーをまとめたものらしい。
寒い日にうどんを腹に流し込んだような温かさにつつまれた。


この十年に出てきた新しい言葉を並べていく
格差社会、勝ち組負け組、ネットカフェ難民、負け犬、メタボリック、自己責任、ジコチュー、学級崩壊...
そんな言葉について語っていく。

ぼくはときどき不思議に思うことがある。格差社会という言葉ができるまで、
社会にたいした格差は存在しなかったのではないか
このコラムを読んでいるあなたは、
もしかするといくつも身もふたもない新語にあてはまる生き方をしているかもしれない
格差社会の底辺にいて、非正規の不安定な職につき、自分を負け犬と信じて...(中略)
けれども、ここで言っておきたいのだ。自分に貼られたシールに負けるな。
新しい言葉などに負けてはいけない。どれほど気のきいた残酷な言葉でも、
あなたという人間全体をあらわすことなどできないのだ。
ひとりの人間は、現在の姿だけでなく、将来の可能性まで含めた未知数の存在だ。
シールを貼ることでわかった気になってはいけない。(中略)

今、求められているのは、傷つきやすくなった世界で、やわらかな心を回復させていく方法なのだろう。
人間らしく成功や失敗を繰り返しながら、変化する自分を受け入れ、
あきらめることなく未知の可能性を追って行く。(中略)
あなたにも傷の痛みに耐えられる力が湧いてきますように。
そして自分に貼られたシールをはがせますように。
ぼくたちは簡単に分類されてしまうファイルのなかだけで生きているわけではない。


嫌な世の中を表現する新語は、ほとんどマスコミから出てきたのではないか?
芸能人がちょっとした失言で、立ち直れないくらいに批判し追い詰めるマスコミ。
大きな試合でちょっとした失敗をしたスポーツ選手を、まるで戦犯のように責めるマスコミ。
そんな冷酷な連中が作った温かさのない造語を、自分に貼り付けて傷つくなんて愚かなことだ。
社会全体が他人に厳しくなったような気がする。
自分にも他人にも寛容な心をもっていきなければいけない。寛容さのない世の中は生きていくのに辛い。
寛容さを失った社会の究極は戦争ではないか。
今日も、イスラエルで多くの人が憎みあい殺しあっている。
大国の論理で利用され分断された人々...悲しいことである。


どんな人間でも、この世に存在してよいのだ。