不羈なる心

お酒を飲んだ帰り道、今日は美しい満月が輝いている。(今回も写真撮りそびれた、残念!)
青白く星々を見上げながら、何人かの友を思い浮かべる。

睡蓮の長いまどろみ(上) (文春文庫)

天のどこかが破れたような、見ようによっては海の水が槍状に噴き上がっているような、
地響きをともなった雨であった。
三十メートル先ほど先に停めてあるはずの、今井が乗っているはずの車も見えなくなったのに、
漁船の無線アンテナに止まっている一羽のカラスだけが、順哉には見えた。
なぜあのカラスは雨に打たれない場所に飛んでいこうとしないのか。体が弱っていて、飛ぶ力がないのか。
この無数の槍のような雨に打たれながらも、なぜあの細い無線アンテナの先端に止まったままでいられるのか...
順哉は、おそらくこれほど激しい雨に遭遇するのは生まれて初めてだと思いながら、
一羽のカラスばかり見つめ続けた。
そうしているうちに、順哉には、そのカラスが繊細でありながら不羈でもある、一個の命のように思えてきたのだ。
...千菜、どうしてあのカラスを見ないうちに死んだりしたんだよ。あいつを見ろよ。
  あいつみたいに生きたらよかったんだよ。
...沛然たる雨ってのは、こんな雨のことを言うんだな。一生に一度くらいは、こんな雨に打たれたほうがいい
...千菜、あのカラスを見ろよ。何物にも束縛されず、それでいて、ふてぶてしくないんだ。
なんだか非凡なものが漂っているよ。あいつ、カラスだぜ。みんなに忌み嫌われてるカラスだぜ。

30年前、豪雨の中を歩いて家に帰った日の記憶がよみがえってきた。
父の事業はうまくいかず収入はほとんどない状態。母の内職で私たち家族は生活を繋いでいた。
つぶれたクリーニング屋の傾いた木造の古い建物を格安で借りていたが、
木枠の窓は隙間だらけで、冬は外と変わらぬほど寒く、二階の部屋はボールが転がるほど、傾いていた。
華やかな横浜駅から自宅までの20分の道のりは、さびしい現実に帰って行くよるべない道のりだった。
その日は、駅に着くなりバケツをひっくり返したような雨になった。
傘もなくバスに乗るお金もなく...しばらく待つしかなかったのだが、
不意に思い立って、雨で煙って数十メートル先も見えないほどの舗道を歩きはじめた。
10歩もあるかないうちに全身が雨に濡れ、学生服が重くなった。
家まで続く2kmほどの道を、走ることもなくゆっくりと歩きながら、いろいろなことを感じ続けていた。
全身を洗い流す雨が、心の中にわだかまったものまで洗い流していくようで
生きる力が湧いてくるような感覚に包まれていったように思う。


なにがどうなろうと、大したことではないのだ。
あの日の不羈なる心を思い起こして歩いて行けばよいのだ。
自分に言い聞かせ、そして、それぞれに闘う友にそう呼びかけてみた。