志摩の落日

灰色の海のうえに滴り落ちた夕陽のしずくが
入り組んだ島影の間を縫って、絹のような水面に飛び散って滲んでいった。



せっかく来たけれど、今日は焼けないかもしれない...
ここに向かう車のフロントガラス越しに見上げた空には、
鱗のような厚い雲がひろがっていた。
それでも一縷の望みをかけて祈りながら、ハンドルを握りしめた。


最後の昇り勾配を越えると空が見えた。
はやる気持ちで下り坂を降りて視界が開けたそのとき、
湿った風に追いやられた雲の隙間から幾筋かの光が漏れていた。
そして雲の下から、太陽の腹が姿を現したのだった。


落日は、水平線に向かってまっすぐに堕ちていった。
堕ちるごとに、色を増していく太陽の周りで
雲が燃え、空が燃え、そして海が燃えていった。

ああ、やはりここに来てよかった。
出張に併せて休暇を取って、ここまで来たのは
今一度原点に還って、そしてやりなおそうと思ったからだった。
ここで仕事に燃えて走っていた日々は、遠い彼方の思い出のようであった。
いつも傍らに海があった。素晴らしい仲間も友人もできた。
旭日に勇気をもらい、落日に癒されて、一日一日必死に生きていた。
大きな仕事を無事に終えた後、突然会社が破綻してしまった。
今年でちょうど十年経っていたことに気がついた。


目の前の景色は、十年前と何ひとつとして変わってはいなかった。
波の音も聴こえない静かな海のうえで
目まぐるしく変わっていく茜色の絵巻を眺めながら
この十年のことを想った。長い長い十年だった。


突然エンジン音とともに現れた小舟の軌跡が、光の道を揺らした。
金色の波は静まるごとに色褪せていき、
落日は、余熱を残して雲の向うに消えていった。
悲しい記憶も、胸の奥に沈んでいくような気がした。


カモメが一羽、くすんだ茜の空を渡っていった。



☆ おまけ ☆

10年前のある日の写真


☆ おまけ ☆
夕食