待合室の記憶

午前中まで晴れ上がっていた空に
立山の山並みから流れ出た雲がひろがりはじめていた。
山のひとところで雲が堰を切って雪が降りはじめたのが見えた。


富山地方鉄道西魚津駅は、住宅地の中にひっそりと建っていた。
無人駅の入口のガラス越しに、薄暗い待合室を覗くと
ベンチでひとりの青年が眠っていた。
それは19歳の私だった。

80年も前からそのままの状態で残っているという駅舎の佇まいを見ているうちに
37年前の記憶が突然蘇ったのだった。


19歳の秋、一人で山陰への旅に出た。
夏休みいっぱい町工場のアルバイトに明け暮れて、なんとか一年分の学費を稼いだ。
少しだけ残ったお金で、休みの最後の一週間、旅に出ようと思った。
司馬遼太郎の小説で読んだ街に...吉田松陰が歩いた萩に行ってみたかったのだ。
もちろん、新幹線に乗るお金などない。
その地方の周遊券を買うと、朝早く横浜駅から東海道線の普通電車に乗った。
京都で山陰本線に乗り換えた時には、もう夜になっていた。
一日で着かないことはわかっていたが、とにかく日本海までは出たかったので、
途中で舞鶴線に乗り換えて、西舞鶴から宮津方面の最終電車に乗った。
沿線は真っ暗で何も見えず、心細くなってこんな旅に出たことを後悔した。
どこに泊まるかも決めていなかったが、
路線図を見て、有名な天橋立なら少しは明るいかもしれないと思って電車を降りた。
しかし、駅の周囲は既に真っ暗で、改札を出たきり途方にくれてベンチに座った。
終電車を見送った駅長が来て、どこに行くのかと聴かれた。
決まっていないと言うと、待合室で寝てもいいよと言って灯りを消して帰って行った。
待合室の木のベンチに寝そべってみたが、なかなか寝付けない。
耳をすますと漆黒の闇の向うから海鳴りが聴こえる...
都会育ちの私には、とてつもなく怖ろしく、そして寂しい夜だった。
しかし、一日中鈍行列車に乗ってきた疲れもあって、いつしか眠りに堕ちていった。
ふと目が覚めると、空がしらみはじめていた。
海辺に出て、堤防に座り、染まりゆく空を見ていた。
燃えるような太陽が水平線に現れた。
海から昇る旭日を見たのは、初めてのことだった。
光る海の真中に、天橋立に並ぶ松並木のシルエットが横たわっていた。
こんなに美しい景色が、この世にはあったのか...
胸の中に赫々と旭日が昇っていくのを覚えたのだった。


ガラス越しの19歳の私は、いつしか起き上がって、文庫本を読んでいた。
頬は青白くこけていたが、目だけが輝いていた。
電車はしばらく来そうになかった。


ああ
悪いが俺は
君の夢をひとつたりとも叶えることができぬまま
無為な年月を生きて、こんなつまらぬ大人になってしまった。
所詮、たいした使命などなかったのだろうが
あの日、胸の中に昇ったはずの太陽は...
萩の街を歩きながら湧きあがった闘志は...
いつの間に冷めてしまったのか。
みぞおちを突き上げるような哀しみが湧きあがってきた。
ガラス越しに見えた、遠い日の記憶...


電車に乗ってみたかったが、そんな余裕はないので車で線路に沿って走ることにした。
西魚津から海沿いに西へ行くと、滑川から分岐して立山に向かう。
山側へ向かう道は思いのほか急斜面で、融雪パイプから噴き出す水は
アスファルトの表面を、海に向かって川のように流れていく。
水の流れに逆行するように、時間をさかのぼっていけたらいいのに...


途中、いくつかの駅に寄ってみる。
全国どこに行っても変わらない均一化された駅舎に比べたら
昔の駅は、それぞれの顔があるな
ここで何十年もの間、無数の人々の人生を見てきたのだ。


立山線と上滝線が合流する岩峅寺駅には、駅長がいた。
写真を撮ろうと思って入場券を求めると、そんなものはいらないからと言って
ホームに招き入れてくれた。


線路が常願寺川と並走し始めると、坂道はさらにきつくなり
雪が深くなっていった。

車を停めて橋の上からその川を見下ろすと
隣に19歳の私が立って一緒に景色を見ているような気がした。


遥かなる山々から水を集めて激しく流れる川は
真っ白な谷を蛇行しながら、山並みの向こうへ消えていった。

ああそうか...
あの日始まった旅は、まだ終わっていないのだな...
海に注ぐ日まで、物語は終わらないのだ。


あともう少しだけれど
今一度、胸中に旭日を昇らせるのだ
大したことのない人生でも
19歳の私の想いに、ほんの少しでも報いるために。


そう思って横を見たが、そこには誰もいなかった。
激しく流れる川の音だけが、微かに聴こえていた。



☆ おまけ ☆
富山での食事
居酒屋の社長 イッセイが営む姉妹店『あ!ホルモン』で食事をしていたとき
隣に座っていたイッセイの同級生 柳瀬さんが営む『辰巳寿司』
富山駅から少し離れていますが、行ってきました。
シャリが小さいので、ネタを存分に味わえます。美味しかった。