暗雲の下で...

休日の静かなオフィス街を、颯爽と歩いていくその人の背中に、
深く頭を垂れて「ありがとうございました」ともう一度小さな声で言った。
侍の格好をした方が似合うような凛々しく美しい後ろ姿だった。
その向こうに見える横浜スタジアムの照明塔の上を、
白い雲が海の方へと足早に流れていった。
そして僕は、昼から飲んだワインの酔いをさまそうと
海岸通りに向かって歩きはじめた。


高校を卒業して30年、なんのお付き合いもなかったSさんから
突然連絡をいただいたのは、春先のことだった。
剣道部の先輩で、自分が入学した時には既に卒業され
当時、日本一強かった法政大学の剣道部に居られた。
一年違うだけでも上下関係の厳しい世界で、Sさんの存在はあまりにも怖くて

たまに来てくださる稽古以外でお会いしたこともなく
まして、個人的なお話しなどしたこともなかった。
10年ほど前に、同窓会で一度だけ顔を合わせてご挨拶をし、
その後Facebookで繋がったが、直接ご連絡をしたこともなかった。


しかし、ずっとこの不甲斐ない後輩の頼りない人生を見守っていてくださったのだった。
食事をしながら健康状態のこと仕事のこと家庭のことなど、事細かに聴いてくださった。
もがいてももがいても、転落していくしかなかった人生のなかで
心身ともに著しく変調をきたしたのは6年前のこと
しかし、やっと就職した会社は、また目を覆いたくなるような出来事ばかりで
精神を麻痺させて、諦めて生きるしか自分を守る方法が見当たらなかった。


Sさんは、そんな自分の状況に心を痛めてくださり
その後、ご自分の大事な立場に傷がつくのも恐れずに、
駄目な自分のために手を尽くしてくださった。
再び新たな挑戦をできる道を開いてくださったのだった。


しかし...
様々な事情やしがらみもあって、その道を前に踏み出すことができなかった。
断腸の想いでお詫びのお手紙をお送りしたが、もう合わせる顔はなかった。
それから4か月...突然、年末に会おうとのご連絡
昨夜は会社の忘年会 今夜はご家族の忘年会という多忙なスケジュールの隙間を
わざわざ時間をこじあけて、会いにきてくださった。


馬車道の近くのスペイン料理店で食事をしながら
快活に飲み、快活にしゃべられて
これまでのことに、きちんと区切りをつけてくださった。
そして、先輩後輩としてお付き合いをしていこう
また困ったことがあれば、いつでも相談に乗るよと仰って
帰っていかれたのだった。
剣を抜いて、青眼の構えで相対したときの
相手の心に射しこむような、それでいて深く優しい眼だった。


大桟橋に、大型客船が停泊していた。
海の底のような空が、どこかで観た海洋画家の描いた空に似ているような気がして
子どもの頃から数えきれないくらい見てきたその海が
見たこともない、遠い異国の港に見えたのだった。


雲が切れて、客船の煙突と対岸の倉庫街が光のなかに浮かび上がる。
しかしそれは一瞬のことで、再び雲が流れて光の帯は失せてしまった。
ああ...こんなものだな
俺には光を掴む力は、もう残っていないのかもしれない。
黙って、この暗い空の下を歩いていくしかないのかな...


そう思って歩きはじめたとき
向うから来た子供連れの家族とすれ違った。
障害を持っているのであろう小学生の男の子は、何が楽しいのかずっと笑っている。
若い夫婦も、幸せそうに男の子を見つめ、そして話しかけている。


ふと空を見上げると、真っ黒な雲が朱く燃え始めていた。
男の子の屈託のない笑い声が、遠ざかりながらずっと聴こえていた。