竹西寛子『椿堂』

池の上に幾重にもかかる楓の枝から、
冬の紅葉が、力尽きたようにほつりほつりと堕ちていた。
色褪せて乾いたいのちは、あまりに軽くて
鏡のような水面には、微かな波さえ立たないようであった。


12月の小石川後楽園は、人も少なくひっそりとしていた。
ビルに囲まれた都心の庭園の池の畔に立って
会うごとに老いていくような母を想い
小さくなっていくような父を想った。

老人には妻に見せたいものがあった。
いつか、それを、と思っているのに、言いだす時をはかりかねていた。
    竹西寛子椿堂』(『五十鈴川の鴨』に収録)

五十鈴川の鴨 (岩波現代文庫)

五十鈴川の鴨 (岩波現代文庫)

なにげない日常の言動のなかに、老人は妻の急な衰えを感じる。

....
夫はそう言いながら、妻の薄くなった肩のあたりをそっと眺めた。
冷え込みが続いて、庭木の黄葉や紅葉がすすんだ。雲が空を覆って、夕方にはまだ間があるのに仄暗い。
(中略)
夫の茶碗に急須を傾けながら、澄んだ香りの漂う中で妻が突然口をきった。
「過ぎてしまえばお話しですみますけれど、あの時ばかりは、離婚していただこうかと思いました」
妻の目は急須の口に注がれたままである。いつものように腕を組んで妻がつぎ終わるのを待っていた夫は、
この突然に息を詰めた。妻の目を探った。用心して咄嗟の言葉だけは呑みこんだ。
「あの時」のひとことで通じるものが、この二人にはあった。
(中略)
「本気でか」
わざとぶっきらぼうに言った。
「はい」その声の強さは前と変わらなかった。
しばらく二人の沈黙が続いた。
つぎ終わった妻が夫に茶碗をすすめ、夫がゆっくりと最初の一口を飲んだ。
「そうかお前も矢張り女だったか」
照れ隠しのような明るい声で笑った。妻も笑った。
夫でさえ滅多に聞くことのない笑い声だった。
  前掲書

老人には忘れ得ぬ風景があった。
亡くなった親友と行った、最後の冬の旅で見た
比叡の山奥にひっそりと建つ椿堂という小さな堂に咲き残った数輪の椿...

あの花を妻に見せたい。あの堂の前に妻を立たせたい。
.....(中略)
少し早い妻の衰えは自分のせいかもしれぬ。
それとなく気にしていた老人は、許しとも怨みともつかぬ妻の笑い声に勇気を得た。
年が明けたら、寒さのゆるむのを待って、ぜひ比叡に行こう。
自分が稀有の美しさと見たものを妻とともに見る時を思うと、
久々に気持ちが上向いた。
言葉はいらない。深い詫びも、いたわりも、共にそこに立つことの中にこめたいと思った。
    前掲書


(この日の椿ではないが...この作品を読んでいて思い浮かんだので...)


父には、母に見せたいものはあったのかな...
認知症が進んでしまったいまとなっては、記憶の底に沈んでしまったことだろうが
若い頃は自由奔放で、商売を始めてからは苦労ばかりだった父は
家族にも負い目があって、きっと何も言いだせなかったのだろう...
でも、それでよかったのかもしれないな。


水面に落ちた紅葉が、漆黒の水面に一列に連なって、ゆっくりと流れてきた。
春に芽吹いて新緑に萌え、秋には華やかに色づいた、あの輝きはもうどこにもない。
それでも花が降る軌跡のようなその配列を、僕は、いままで見てきたどの紅葉よりも美しいものに思えた。

今年最後の紅葉を眺めながら、広い庭園をゆっくりと歩く。
まばらになった葉の間から見える空は蒼いのに、
ビルの影になった木立は暗く肌寒い。
色褪せて、痩せてしまった褐色かかった葉を見上げて、ああ自分もこんなかなと思う。
それでも哀しみは感じない。老いていくのも悪くないかなと...

そろそろ帰ろうかと思ったそのとき
ビルの隙間から不意に陽が射しこんで、山茶花の花が浮かびあがった。


そして、山茶花の見上げる視線の先で
一瞬の陽光に浮かび上がった金色の蒔絵が輝きはじめた。