小淵沢の朝

雨音で目を覚ました。まだ5時前だった。
いつの間に眠ってしまったのか...暖房を入れたままで、部屋は暑いくらいだった。


昨日の6時に横浜を出て、愛知県の岡崎経由で新潟県妙高市まで走り、
神奈川に戻る途中、小淵沢で力尽きて、インターに近いペンションで一泊した。
10時間で900km...ほとんど休みなしのドライブで疲労は限界に達していた。
隣にあったレストランで、焼きすぎた硬いステーキをアルコールで流し込み、
温泉に浸かってからベッドに潜り込んで、泥のように眠ったのだった。


雨に濡れる森の中を歩いてみたいと思い、荷物をまとめて外に出る。
寒さはずいぶん緩んだように感じたが、森に春の色は見当たらず
融けた雪の下から現れた枯れ草が、雨に濡れそぼってうなだれているだけだった。


「枯レジカケテ寒カレ」....ふと、そんな言葉が浮かぶ

本覚坊遺文 (講談社文芸文庫)

本覚坊遺文 (講談社文芸文庫)

...もう一つ、あの中に”枯レカジケテ寒カレ”という連歌に関する言葉を取り上げて、
紹鴎どのが、”茶ノ湯ノ果テモカクアリタキ”と言ったということが記されてあった。
 ”枯れかじけて寒い”というのは判るようで、判らない。 
何事にも酔わぬ、醒めた心と解釈していいであろうか。
...たいへん難しいお訊ねで、私の手には負いかねます。
本覚坊自身、あそこを写しながら、茶の湯の果てもかくありたきと、
師の師に当る紹鴎さまが仰言る以上、どのような境地なのであろうかと思っておりました。
何事にも酔わぬ醒めた心! そうでございますか。
なるほど、晩年の師利休がお立ちになっていた御心境も確かにそのようなものであったろうと存します。
いつも醒めておいでになった。
         井上靖『本覚坊遺文』 第二章 岡野江雪斎との対話


何事にも酔わぬ醒めた心
「枯レカジケテ寒カレ 茶ノ湯ノ果テモカクアリタキ」という紹鴎の言を
井上靖氏が小説の中で言い換えた言葉であるが...
静かに朽ちてゆく雑草の姿に「死」という言葉を重ねてみる。
心を乱してはならぬ。
「死」は、海に溶けていくインクのごときものと覚悟することだ。(*注)


その心を我がものにするために、生きて生きて闘わねばならないのだろう。
そんなことを、こんな雑草が教えてくれる。

死というものは、生のひとつの形なのだ。この宇宙に死はひとつもない。
きのう死んだ祖母も、道ばたのふたつに割れた石ころも、海岸で朽ちている流木も、
砂漠の砂つぶも、落ち葉も、畑の土も、
おととし日盛りの公園で拾ってなぜかいまも窓辺に置いたままの干からびた蝉の死骸も、
その在り様を言葉にすれば「死」というしかないだけなのだ。
それらはことごとく「生」がその現われ方を変えたにすぎない。
           宮本輝『にぎやかな天地』

にぎやかな天地(上) (講談社文庫)にぎやかな天地(下) (講談社文庫)


朽ちゆくいのちの傍らには、既に新しきいのちが次々と芽吹き始めていた。



注:インクの喩えは、2015年2月22日の日記をご参照ください → こちら