沙悟浄の惑い

朝方まで降っていた雨は、どうやらやんだようで
旧いホテルの障子に朝日が射していた。

 

睡蓮の季節だな... ふと思った。
そうだ、いもり池に寄ってみよう...
客先に行く途中で少しだけ国道を逸れて坂道を上がればよい...
早めにチェックアウトして、妙高高原に向かった。

 

道端に車を停めて、池への一本道を歩き出す...
視界にその光景が飛び込んだ瞬間
思わず声をあげてしまった。

広大な池の水面を、純白の花が埋め尽くしていたのだ。


これだけの睡蓮を見たのは初めてのことだ。

 

 

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久しぶりに『ファウスト』を再読して、前回のブログで引用した。
最近、このブログを読んでくださっているKさんからいただいたコメントで
中島敦の『悟浄出世』という小説を紹介してくださった。
青空文庫に入っていたので、一気に読んだ。
それは、まさに東洋版「ファウスト」だった。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000119/files/2521_14527.html

 

流沙河という川の底には、一万三千の妖怪が棲んでいた。
悟浄(沙悟浄のこと)は、そのなかでも最も心の弱い妖怪だった。

また彼ら(妖怪たち)は渠(かれ)に綽名(あだな)して、独言悟浄と呼んだ。
渠(かれ)が常に、自己に不安を感じ、身を切刻む後悔に苛まれ、
心の中で反芻されるその哀しい自己苛責が、つい独言となって洩れるがゆえである。
遠方から見ると小さな泡が渠の口から出ているにすぎないようなときでも、
実は彼が微かすかな声で呟いているのである。
「俺はばかだ」とか、「どうして俺はこうなんだろう」とか、「もうだめだ。俺は」とか、
ときとして「俺は堕天使だ」とか。
中島敦悟浄出世

Kさんも書いておられたが、読みはじめて、この悟浄の中に自分を見たのである。

 

悟浄は、心の病にとりつかれていた。
見るものすべてが彼の気を沈ませ、自分が厭わしく信用のできないものに思えていた。

ある時彼は、一大決心をして旅に出ることにした。
川底に棲む賢人たちのところに赴いてに教えを乞う決意をしたのである。

そして、何人もの賢者に出会い、様々な教えを伝授される。
しかし、5年の歳月が流れて彼が思い知ったことは、彼は全く賢くなっていなかったことであった。

 

最後に会ったジョウ氏に指摘された傍観者としての自分...
そこから、彼の気づきが芽生える。
疲れ切ってよこたわり、夢とも幻ともつかぬ世界で、彼の前に現れた人物が発した言葉...

証すべからざることを証せんと求めた爾(なんじ)のごときは、
これを至極の増上慢(ぞうじょうまん)といわずしてなんといおうぞ。
爾の求むるところは、阿羅漢も辟支仏もいまだ求むる能あたわず、また求めんともせざるところじゃ。
哀れな悟浄よ。いかにして爾の魂はかくもあさましき迷路に入ったぞ。
正観を得れば浄業たちどころに成るべきに、爾、心相羸劣(しんそうるいれつ)にして邪観じゃかんに陥り、
今この三途無量の苦悩に遭う。惟うに、爾は観想によって救わるべくもないがゆえに、
これよりのちは、一切の思念を棄すて、ただただ身を働かすことによってみずからを救おうと心がけるがよい。
時とは人の作用(はたらき)の謂いいじゃ。
世界は、概観によるときは無意味のごとくなれども、
その細部に直接働きかけるときはじめて無限の意味を有もつのじゃ。
悟浄よ。まずふさわしき場所に身を置き、ふさわしき働きに身を打込め。
身の程知らぬ『何故』は、向後一切打捨てることじゃ。これをよそにして、爾の救いはないぞ。

そして、河底から這い上がって、そこを通った三蔵法師について旅を始めるのだ。

 

ファウスト』も、聖書の「はじめに言葉ありき」という部分を懐疑し、考察して
「はじめに行いありき」と結論する場面があったな...

 

自分もまた、この沙悟浄と同じ迷路のなかに迷いこんでしまった。
何故、泥の中に堕ちてしまったのかもわからなかった。
もがくほどに、深みにはまっていった。
道を求めて彷徨ったが、そのたびにまた突き落とされ
そして、逃避に走った。
沙悟浄は自分であり、自分のなかに沙悟浄がいた。

 

何故と考えても考えても、答えなど出るものではない
今の自分の悩みを嘆いてみたところで、何の打開にもならない。

 

ふさわしき働きに身を打ち込むしかないのだ

 

 

広大な池の周囲を歩いているうちに
睡蓮の花は、雲間から現れた太陽に照らされて眩いばかりに輝きはじめた。
池に敷き詰められた睡蓮の花の下の泥の中では、無数の妖怪が蠢いているのかもしれない
ただ、濁った泥水の静かな水面には、美しい青空がそのまま映っていた。

 





おまけ
帰りに立ち寄ったキキョーヤさんでいただいた、アイスパン