美を求める心 1

台風18号が四国沖に近づいて、
朝から強い雨が降っていた。


木曜日から、どれだけ飲んだだろう。
長時間寝てアルコールは抜けたが、
外の空気を吸いたくなって、散歩に出る。
隣の駅まで遠回りで3kmほど...
雨に煙る緑道は、歩いている人もない。
雨の日の散歩もいいものだな。


途中で不意に雨があがり、
木の葉からしたたる水滴が、雲間から射した陽射しを集めて光る。


急に暑くなったので、スタバで休憩
小林秀雄のエッセイ集を開く

栗の樹 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)

栗の樹 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)

「美を求める心」
絵画とか音楽とかを「解る」にはどうすればよいかという若者の質問に対して
解ろうとすることが間違えであって、ひたすら見ること、そして聴くこと...
そこに努力をすること...と語る。

例えば、諸君が野原を歩いていて一輪の美しい花の咲いているのを見たとする。
見ると、それは菫(すみれ)の花だとわかる。
何だ、菫の花か、と思った瞬間に、諸君はもう花の形も色も見るのを止めるでしょう。
諸君は心の中でお喋りをしたのです。
菫の花という言葉が、諸君の心のうちに這入って来れば、諸君は、もう眼を閉じるのです。
それほど、黙って物を見るという事は難かしいことです。
菫の花だと解るという事は、花の姿や色の美しい感じを言葉で置き換えて了うことです。
言葉の邪魔の這入らぬ花の美しい感じを、そのまま持ち続け、花を黙って見続けていれば、
花は諸君に、嘗て見た事もなかった様な美しさを、それこそ限りなく明かすでしょう。
(中略)
何か妙なものは、何んだろうと思って、諸君は、注意して見ます。
その妙なものの名前が知りたくて見るのです。
何んだ、菫の花だったのかとわかれば、もう見ません。
これは好奇心であって、画家が見るという見る事ではありません。
画家が花を見るのは好奇心からではない。花への愛情です。
愛情ですから平凡な菫の花だと解りきっている花を見て、見厭きないのです。
     小林秀雄『美を求める心』


花の名前がわかることで満足してしまっては、それ以上その花の美しさを求めようとしない。
あとで写真を見て、色や形は思い出せるが、その花が発散していた生命の美しさは残っていない。
言葉にも映像にも置き換えることのできない、その空気を観じなければ、
本当の美しさを心に留めることはできぬ。
画家はそれをキャンバスに留め、音楽家は楽譜に記していく...


雨上がりに感じた木々の匂い...小川のせせらぎ...鳴きはじめた蝉の声...
言葉にできないけれど、そのなかにいることの安心感
今まで、大きな自然の営みを前にして感じたその感覚が...

美しい自然を眺め、或は、美しい絵を眺めて感動した時、
その感動はとても言葉で言い現せないと思った経験は、誰にでもあるでしょう。
諸君は、何んとも言えず美しいと言うでしょう。
(中略)
美しいものは、諸君を黙らせます。美には、人を沈黙させる力があるのです。
これが美の持つ根本の力であり、根本の性質です。
絵や音楽が本当に解るという事は、こういう沈黙の力に堪える経験をよく味う事に他なりません。
ですから、絵や音楽について沢山の知識を持ち、様々な意見を吐ける人が、
必ずしも絵や音楽が解った人とは限りません。
解るという言葉にも、色々な意味がある。人間は、種々な解り方をするものだからです。
絵や音楽が解ると言うのは、絵や音楽を感ずる事です。愛する事です。
      前掲書

「美」に対する立ち向かい方を自分の中で見直さねばならない。
濁りのない心で...自然をあるがままに愛すること...
生命を研ぎ澄まして、そのいちぶんでも自然に感応すること...


やがて陽は翳り、風が強くなってきた。
少し疲れたので、バスで帰宅...