「風立ちぬ、いざ生きめやも」

久しぶりにとった有給休暇
平日でないとできない用事を済ませ
熱風の吹く横浜の街をゆっくりと歩いて桜木町へ...
何をするか宛てもなかったのが、
平日だから映画館は空いているかもしれないと思い
風立ちぬ』を観賞。
チケットに刷られた、
キャンバスに向かう少女と「生きねば」というコピーが心に刺さる


実在の堀越二郎に、なぜ堀辰雄の『風立ちぬ』の節子(映画では菜穂子)を出会わせたのか...
少年時代からの夢に向けて、ただひたすら一途にひた走る二郎
仕事の挫折のなかで再会した菜穂子...
青年はふたたび空への夢に向けて歩きはじめ、
菜穂子は、愛する人と生きたいと願う。
生と死が交錯しながら、物語は展開していく。
辛く苦しい時代...そんななかで希望を求めて生きる若い命...
原作は、『風立ちぬ』だけでは哀しすぎるし 『零戦』だけでは勇ましすぎる
どちらも必要なんだよな...人生も...


エンドロールで流れる主題歌 荒井由美の『ひこうき雲』..
高校生時代に彼女がつくったという歌が
まるでこの映画のために作られたようにさえ聴こえる。


映画を観る前に、原作のひとつ『風立ちぬ』を読み込んで行ったが
映画館を出て、一人海を見に行って山下公園のベンチでもう一度読み返す。

風立ちぬ・美しい村 (新潮文庫)

風立ちぬ・美しい村 (新潮文庫)

堀辰雄の作品は、初めて読んだが、最初の1頁ですっかり好きになってしまった。

Le vent se leve,il faut tenter de vivre. PAUL VALERY
風立ちぬ いざ生きめやも)

直訳したらなんとも無味な詞を、堀辰雄はこう訳した。
そこには、「生きねば」という強い意志が込められ、詞に命が吹きこまれた。

それらの夏の日々、一面に薄の生い茂った草原の中で、
お前が立つたまま熱心に絵を描いていると、
私はいつもその傍らの一本の白樺の木蔭に身を横たえていたものだった。
そうして夕方になって、お前が仕事をすませて私のそばに来ると、
それからしばらく私達は肩に手をかけ合ったまま、
遥か彼方の、縁だけ茜色を帯びた入道雲のむくむくした塊りに覆われている
地平線の方を眺めやっていたものだった。
ようやく暮れようとしかけているその地平線から、
反対に何物かが生れて来つつあるかのように....


そんな日の或る午後、(それはもう秋近い日だった)
私達はお前の描きかけの絵を画架に立てかけたまま、
その白樺の木蔭に寝そべって果物を齧っていた。
砂のような雲が空をさらさらと流れていた。そのとき不意に、何処からともなく風が立った。
私達の頭の上では、木の葉の間からちらっと覗いている藍色が伸びたり縮んだりした。
それと殆んど同時に、草むらの中に何かがばったりと倒れる物音を私達は耳にした。
それは私達がそこに置きっぱなしにしてあった絵が、画架と共に、倒れた音らしかった。
すぐ立ち上って行こうとするお前を、私は、いまの一瞬の何物をも失うまいとするかのように
無理に引き留めて、私のそばから離さないでいた。お前は私のするがままにさせていた。


風立ちぬ いざ生きめやも


ふと口を衝いて出て来たそんな詩句を、私は私に靠れているお前の肩に手をかけながら、
口の裡で繰り返していた。
それからやっとお前は私を振りほどいて立ち上って行った。

やがて節子は結核を患い、信州のサナトリウム結核病棟)に移ることになる。

「どうして、私、この頃こんなに気が弱くなったのかしら? 
こないだうちは、どんなに病気のひどいときだって何んとも思わなかった癖に...」と、
ごく低い声で、独り言でも言うように口ごもった。
沈黙がそんな言葉を気づかわしげに引きのばしていた。
そのうち彼女が急に顔を上げて、私をじっと見つめたかと思うと、それを再び伏せながら、
いくらか上ずったような中音で言った。
「私、なんだか急に生きたくなったのね...」
 それから彼女は聞えるか聞えない位の小声で言い足した。「あなたのお蔭で...」

映画と違うところは、主人公が節子と一緒にサナトリウムに移り住み、
最後まで寄り添っていくことである。
次第に重くなっていく節子の病状...
二人は沈黙のうちに相手を思いやりながら思索していく。
生について...死について...幸福について...

現在のあるがままの姿...私はいま何かの物語で読んだ
「幸福の思い出ほど幸福を妨げるものはない」ろいう言葉を思い出している。
現在、私達の互いに支え合っているものは、嘗て私達の互いに与えあっていた幸福とは
まあ何と異(ちが)ったものになって来ているだろう。
それはそう云った幸福に似た、しかしそれとはかなり異った、
もっともっと胸がしめつけられるように切ないものだ。
こういう本当の姿がまだ私達の表面にも完全に表れてこないものを、
このまま私はすぐ追いつめて行って、
果たしてそれに私達の幸福の物語に相応しいような結末を見出せるであろうか?


信州の美しい自然のなかで... 生と死の間でゆらめきながら、幸福を求める心...
透明感のある美しい文章...
映画とは、また違った感動が胸をしめつける。


YouTUBEでたまたま見つけた、ジブリの前作『コクリコ坂』の挿入歌が、
なぜかこの小説にはまって...何度も聴き返した...


やがて日が落ちて、街の灯がともる。
油を流したように真っ黒になった海に、港の明かりが映って揺れている。
今日は東の空まで夕焼けの名残り...  
熱風のなかを歩いて駅にひきかえした。