泥の中のわたし

待って...待って...
待ちこがれて...
待ちわびて...
待ちきれず...
あなたに逢いにいきました。


深い泥の中で一年の眠りから覚めたあなたは、
早朝の、まだ少しひんやりとする大気につつまれながら
可憐にして清楚な花を天に向けて開いていました。
足元の真っ黒に濁った泥田が鏡になって
その美しい姿を映しだしていました。



初めてお逢いしたのは4年前
あのときも、わたしは泥のなかにおりました。
泥のなかからすくっと真っ直ぐに立ち上がり大輪の花を開いている
あなたが、どれほど眩しかったことか...


自分もいつかは...と
泥のなかを泳ぎ回ってきました。
薄明かりが見えて、すがりついてみましたが、それは幻でした。
それから後も、深みに入っていくばかりで、いまだに青空は見えてきません。


でも、考えてみれば
あなたの二千年の眠りに比べたら、私の哀しみなどは一瞬の夢なのかもしれません。
今年もまた、あなたに逢えて
泥のなかでもう少し頑張ってみようと思いました。
かならず花開いてみせると決めて..


ここに来ると、
宮本輝先生の『睡蓮の長いまどろみ』の冬枯れの蓮田のシーンを思い出します。

そのお寺の池には、枯れた落ち葉が水面を覆い尽くすかのように浮かんでいて、
吹きすさぶ木枯らしが、それらを回転させたり、
昼になってもまだ解け切っていない薄氷を右に左にと動かしていた。
私は、多少は覚悟していたものの、あまりの寒さと、
なにかしら目をそむけたくなるような寂寥とした風景の只中にいることがつらくなって、
池から腫を返したが、なにを思ったのか、拳大の石を力まかせに池に投げ込んだ。
すると、池を覆っていた落ち葉や枯れて朽ちた蓮の茎やらが、
大地が二つに割れるように離れて、茶褐色でありながら澄んでいる水が揺れて、
その底の深い泥が静かに姿をあらわしたのだ。
私は底無しのように見える汚れた泥を見つめつづけた。
この底に、あの美しい花を咲かせる蓮の種がいったいどれだけの数、
眠っているのだろうと思った。
そして、この汚ないぶあつい泥がなければ、あの美しい蓮の花は咲かないのかと思った。
この泥のなかに、私がいる...という幻想くらい、私を鼓舞したものは、
おそらくこれまでの私の人生では他になかったはずだ。
そのとき、私は花果同時という言葉、さらには因果倶時という言葉が、
途轍もなく勇気を秘めた言葉、巨大な希望を蔵した言葉であることを知ったのだ。
夏の、盛りの蓮の花を見たときよりももっと強く、
私は幸福になるための新しい因を自分でいま作ろうと決心した。
因を自分で作るのだ、と。


もうすこし…
あとすこし…
希望の種子が
この胸にあることを信じて…


3年前の冬 琵琶湖のほとりで見た
冬枯れの蓮田



おまけ
2013年 薬師池古代蓮アルバム https://plus.google.com/photos/104915518421068648185/albums/5905481952208460049