水と紅葉のある風景

10時に名古屋に入り、レンタカーを借りて
昼をまたいで稲沢市豊田市の客先を回る。
3時過ぎに打ち合わせが終わり、同僚を駅に送って
さて、今日はどこに寄り道をしようかと
名古屋の紅葉情報を検索。
帰り道の途中、熱田に「白鳥庭園」というのがあって
紅葉が見ごろとのこと...ということで初訪問
http://www.shirotori-garden.jp/


御嶽山から流れ出た清流が、木曽川を下って伊勢湾へと流れ込む風景を模して作った庭園という。


19歳の夏に、木曽川に沿って中山道を一人旅したな...
寝覚めの床という大きな岩の絶景もその時に行ったが、その岩をイメージ造られた場所もある。
水辺の紅葉は、やはり活き活きとして色が鮮やかである。
飛び石もあって、流れの近くまで降りていって、観ることもできる。
写真は、水と紅葉の落ち葉をテーマに...


19歳の一人旅から、ずいぶんいろいろなところを旅してきたものだ。
出張生活も、27歳からずっとなので、全部合わせれば1000回は超えている。
いろいろな出会いもあったな...
19歳の旅でお会いした妻籠宿の土産屋のご主人とは、いまだに年賀状を交換しているが
そのほかにも、忘れられない出会いが、全国のいろいろな場所で数限りなくあった。
もう二度と逢えない人がほとんどであろう...
自分の人生が川であったなら、自分はいまどのあたりにいるのだろうか...
思い出の底に、美しい紅葉の赤や黄色が揺らめいている。

帰りの新幹線...小林秀雄の「匹夫不可奪志」を読む。
孔子の『論語』から出た格言で、ヒップモココロザシヲウバウベカラズと読む。
直訳すれば、たった一人の男でもその志を奪うことはできないということ。
しかし、小林氏は「どうもそんな易しい言葉ではない様である」と、考察を進める。
志如何のところは引用しないが...「経験」という部分が心に留まる。

人生の経験から、自分はどんな智慧を得、どんな智慧を失ったかを思索するのは、雲を掴むようなものである。
例えば、沢山の女と関係した経験があるお蔭で、女に対して悧巧になったというのも本当だし、
馬鹿になったというのも本当だとしたら、一体どういうことになるのか。どうにもなるまい。(中略)

経験というものは、己れの為にする事ではない。相手と何ものかを分かつ事である。
相手が人間であっても事物であってもよい、相手と何ものかを分って幸福になっても不幸になってもよい、
いずれにせよ、そういう退引きならぬ次第となって、はじめて人間は経験というものをする。
そういう点によく心を留めてみると、経験は、場合によっていろいろな事を、教えたり教えなかったりするだろうが、
たった一つの事は、あらゆる場合にはっきり教えているという事が解る。
もし経験というものに口が利けたら、彼はこんな風な事をぶっぶつ言っていると思う。
「ほら、此処に、他人という妙な生き物がいる。まあ、人間には違いないがね。
しかし、人間と言っちまうのもどうかと思うね。面相は勿論、組織も性格も運命も、
まるで君とは似ても似つかぬ奴だからな。他人と言って置いた方が無難だろう。
理解しようなどと思ったって無駄だよ。ふむ、だから経験しているというわけだな。
よろしい、大いに経験し給え。つまり交際するのだな。
無論、止むを得ない場合は、喧嘩も交際の一種だからな。わかったろうな。
さて、今度は物だ。他人じゃない。他物とでもいうかな。
無論、君は、もう天体だとか物質だとかとは間違えやしまい。
自動車が来たから君は除けたのだな、それに間違いないな。大変よろしい。
尤も、もっと切実に経験したければ、轢かれても構わないのだぜ」
           小林秀雄『匹夫不可奪志』

これから、どんな出会いがあるのだろうか...
どんな人といかなる経験を分かち合うのだろうか...
流れる清流の上に、美しい色の葉がはらはらと舞い降りる光景を思い出しながら
そんなことを考えて、2本目のハイボールを飲んだ。


おまけ WEBアルバムに、その他の写真アップしました。
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