死というもの

久しぶりに何の予定もない土曜日
前日の写真を編集して整理しWEBにアップして
読み終わった本を所々読み返して
ブログをアップし...
Facebookに書き込みをして一段落...

あとは、バッハのピアノ曲inventionを聞きながら思索の時間

にぎやかな天地 上

にぎやかな天地 上

死というものは、生のひとつの形なのだ。この宇宙に死はひとつもない。
きのう死んだ祖母も、道ばたのふたつに割れた石ころも、海岸で朽ちている流木も、砂漠の砂つぶも、落ち葉も、畑の土も、
おととし日盛りの公園で拾ってなぜかいまも窓辺に置いたままの干からびた蝉の死骸も、
その在り様を言葉にすれば「死」というしかないだけなのだ。
それらはことごとく「生」がその現れ方を変えたにすぎない。
                           宮本輝『にぎやかな天地』

働いていた美術専門の出版社が倒産し、独立して編集者となった主人公船木聖司32歳。
謎めいた老人松葉伊志郎から依頼される豪華限定本の編集・製作を手掛けている。
祖母の死をきっかけに動き出した自らの中の生死に対する思索と、
にわかに動き始める様々な人間関係...父の死の秘密
松葉氏から依頼された仕事は、日本伝統の発酵食品についての豪華本の制作であった。
生命というものの神秘...強さと美しさ...歳月というものの重さ...
様々な登場人物が織りなす錦絵のような物語に、改めて宮本輝という作家の「凄さ」を感じる。


この物語の中に出てくる滝井野里雄という画家が描いた、名曲の楽譜だけを描いた豪華本
師匠の大門が手掛けたこの本を手にする場面

聖司は、少し変色しているハトロン紙を丁寧に取り、手ざわりのいい羊皮の表紙をひらいた。
題も作曲者名も原語で書かれていたが、最初の楽譜がモーツァルトの「レクイエム」であることは聖司にもわかった。
五線はセピア色のインクで書かれていて、それはすべて波打つように曲がっている。
音符は薄墨色で、肘を伸ばしたようなデフォルメが施されていた。
(中略)
「レクイエム」は、A4版のケント紙に描かれていたが、チャイコフスキーの「白鳥の湖」はB4判くらいの大きさの、
吸水性の少ない和紙に極紙のペンで描かれていた。
墨の色は、もうこれ以上薄くしたら判読不能なほどに薄くて、墨のかすかなにじみが白鳥の精のほかなさを伝え、
聖司の心に曲そのものを静かに響かせてきた。
紙のサイズも種類も曲によってすべて異なっていて、色鉛筆で描かれた楽譜は二曲あった。
モーツァルト交響曲三十九番とリヒヤルトーシュトラウスの「死と変容」だった。
死と変容」という自分の最も好きな曲が、その風変わりなぶあつい豪華本の最後にあることで、聖司は心が高揚してくるのを感じた。
自分はいつか死ぬ。それは何人もまぬがれることはできない。しかし自分か死んでも、秋は来て冬が来て春が来て夏も来る。
赤ん坊は生まれ、あの娘は誰かと恋をして、……世の中は、自分の死と関わりなく動きつづける。
死によって、自分はそれらを見ることはできなくなる。それが悔しい。それが寂しい。
死は恐れないが、それらを見ることができなくなることが悲しい……。
聖司は、リヒヤルトーシュトラウスの「死と変容」をそのようにとらえていたのだが、
滝井野里雄が三色の色鉛筆を使い分けて描いた楽譜は、まさしく聖司の受けとめ方と同じ響きを奏でてくるようだった。
                                 宮本輝『にぎやかな天地』

この本の最後に、作者自身の言葉が5行の古代ラテン語で書いてある。
大門は記憶をたどるが、どうしても四行目だけが出てこない。

私は死を怖がらない人間になることを願いつづけた。
だが、そのような人間にはついにはなれなかった。
きっと私に、最も重要なことを学ぶ機会が与えられなかったからだ。
.......
ならば、私は不死であるはずだ。

聖司は、自分が入院中にノートに書きつけた文章をあてはめてみる。
「死というものは、生のひとつの形なのだ。この宇宙に死はひとつもない。」


人間は必ず死ぬ。
自分も、死に向かって止まることなく歩き続けている。
死を怖がらない人間...この宇宙に死はひとつもない...ならば私は不死であるはずだ...
生死を繰り返す微生物...掛け替えのない人間の死...
そなことを考えているうちに、バッハの音楽が明瞭な質感を持って胸に迫ってきた。
バッハは、「死」というものを表現したのではないか?
それは、際限のない哀しみか...不滅の永遠性なのか...
人生は謎に満ちているが、そんな謎のひとつも解けないうちに、自分はこの世から姿を消していく。


マイミクさんの影響で聴くようになったバッハのインヴェンション by Glenn Gould
長いので、再生しながら読書でもしてください。