人生50歳から...

昨日から、少し肌寒いような陽気である。
横浜の桜は、もう殆ど散ってしまった。
毎年、美しい桜を求めて出掛けるのだけれど、今年はそれもできなかったな。
何よりもまず自分の生きる場所を決めなければならないし...


先日断った会社から応募書類が帰ってきた。
採用する予定だったということで、社長から長文のメールが来たが
社員を大事にできない会社には、もう散々懲りてきたから悔いはない。
信用して入ったばかりの会社が経済産業省から過去の補助金不正受給で摘発され
その後、突然理不尽な解雇を言い渡されてから、今日で一年。
そんな状態で残ったところでどうしようもなかったわけだが...
去年は、暗澹とした気持で彦根城の桜を観たんだよな...長い一年だった...


就職活動のかたわら、宮本輝の『森のなかの海』を読み返している。

森のなかの海〈上〉

森のなかの海〈上〉

夫の転勤で移り住んだ西宮で阪神淡路大震災に遭った仙田希美子。
夫は妻を東京に返してから自分は愛人の元に走ってしまう。
父につきそわれて弁護士事務所に行った後、父の行きつけのうどん屋に入る場面。

父は何か言おうとした希美子を制し、丁寧に手打ちされたうどんがどうしてこんなにうまいのかについて、誰かからの受け売りだがと前置きをして話し始めた。
「うどんを打つとき、薄く伸ばしたのを三つに畳んで、それをまた元の大きさに伸ばす。
それを三十回繰り返すと、うどんの層はいくつになると思う? 三の三十乗だ」
希美子は首をかしげて、父を見やった。
「二百六兆近くだ。つまり、このうどんは、二百六兆の層のパイ皮みたいなもんなんだ。
その二百六兆のなかに、昆布と鰹節、醤油で作ったうまいだし汁が沁み込むんだから、
そりゃあ、うまいはずだよ。
だけど、機械で大量生産したうどんてのは、三の三十乗を二の十乗くらいに手抜きして
スーパーにならべてある。それをうどんだと思って食ってる」
人間をうどんにたとえたら。三十代なんてのは、まだ打ってる最中の未完成品で、
三の五乗くらいかもしれない。
三十回打たれて本物のうどんに近づくのは、五十歳になってからだと思う。
父はそう言って微笑んだ。
「畳まれて伸ばされて、畳まれて伸ばされて....。たった三十回が、なんと二百六兆のうどんの層になる。
昔は人生五十年なんて言って、五十歳が平均寿命みたいなとらえ方をしてたけど、
それは解釈の間違えかもしれんな。
孔子は『五十にして天命を知る』って言ったんだ。
五十歳になって、やっと本物の人生が始まるってのが、人生五十年の本当の意味じゃないのかな。
五十歳までは、畳まれて伸ばされて、畳まれて伸ばされて、豊かな層を自分のなかに作っていく期間ってわけだ。
二百六兆の層ができるまでは、いろんなことがあるさ。
こんどの大地震でも、春秋に富む若い人たちがたくさん死んだな。
戦争でも優秀なじつに多くの春秋に富む若者たちが鉄砲や大砲の弾代りにさせられて
命を散らした」
父は箸を持つ手を止め、
「春秋に富むっていう言葉の意味、わかるよな?」
と訊いた。
「前途洋々って意味でしょう?」
「まあ、そうだな。だけど、前途洋々って言葉は、未来が大きくひらけてるって意味だけど、
春秋に富むってのは、まだ若くて先は長いって意味だ。
俺は前途洋々という言葉よりも春秋に富むっていう言葉のほうに深みを感じるんだ。
人にはできない大仕事をするかもしれない若者も、平凡なまま終わっていくかもしれない若者も、
どちらもみんな春秋に富んでいる」
おそらく父は、直接的な励ましやなぐさめの言葉を避けようとして、
このような話題を選んだのであろうと希美子は思った。

そして、希美子の前途には予想だにしなかった春秋に富んだ人生が始まっていく。


自分も畳まれて伸ばされて、畳まれて伸ばされて...生きてきたようにも思えるが
間もなく五十歳という年齢を迎えるのに、まだまだ何も深まっていないな。
それは自分という人間の甘さであり浅はかさなのだろう。
社会できちんと自分の位置を持って生きている人が多いのに
この1年、あてもなくよるべなく...ふらふらと生きてしまった。


五十歳から本当の人生が始まると思えば、少しだけ心は軽くなるけれど...
春秋に富んだ人生が、見えない明日に横たわって自分を見つめている。



(おまけ 4年前に観に行った三重の山奥の桜)