チェーホフ『恋について』

仕事はないのに、ボランティアは忙しく...
土曜日は、K大学後援会の総会...終日
総会では副会長の任命を受ける。
ホントに自分でいいんだろうか?
仕事もしてないのに...


平日になると、またすることもなく...
午後から再び公園へ...
木陰に座って、ソーダ水を飲みながら本を読む。
初夏のような陽射しだが、木陰は気持ちいい。
以前、宮本輝のエッセーで紹介されていた、
チェーホフの『恋について』

恋について (チェーホフ・コレクション)

恋について (チェーホフ・コレクション)

アリョーヒンという青年は、アンナ・アレクセーヴナという女性に恋をしている。
アンナもまたアリョーヒンにひそかに思いを寄せている。
しかし、アンナには夫も子供もいたのだった。
そして、お互いに思いを告げられぬまま別れの時が来た。

「幸か不幸か、われわれの人生では、遅かれ早かれ終わりを告げぬようなものはないのですね。
別離の時が来ました。(中略)
わたしたちはおおぜいでアンナ・アレクセーヴナを送りに行きました。
彼女が夫や子供たちと別れをすませ、三番目の発車ベルがもうすぐというとき、
わたしは彼女のコンパートメントへ駈け込んで、
忘れそうになったバスケットを一つ、網棚へのせましたが、
いよいよ別れを告げなければなりません。
そのコンパートメントで互いに目が合ったとき、ふたりとも自制心を失ってしまって、
わたしは彼女をひしと抱きしめました。
わたしの胸に彼女が顔をおしあてると、その眼から涙がこぼれました。
涙にぬれたその顔や、肩や、手に口づけしながら
...ああ、どんなにわたしたちは不仕合せだったことでしょう...
わたしは思いのたけを訴え、そして焦がれるような痛みを胸におぼえながら、
ふたりの恋を妨げていたすべてが、どんなに取るにたりない、ちっぽけなことだったか
どんなに見かけだけのことだったかをさとったのです。
恋をしたら、その恋について考えるのに、月並みな意味で幸福か不幸か、
罪悪か美徳かなどということよりも、もっと高い、もっと大事なことから出発するべきだ、
そうでなければ、むしろ全く考えないほうがいい、ということをわたしはさとったのです。

最後に口づけをかわして、手をにぎりしめてわたしたちは別れました...永遠に。
汽車はもう動き出していました。わたしは隣のコンパートメントに行って腰をおろし...
そこには誰もいなかったのです...次の駅までそこにすわって泣きました。
それからソフィーのへ歩いて帰ったのです。」

かなわぬ恋の結末は切ない。


果たしてこのような恋に、社会的規範や倫理を超えて、
<もっと高い、もっと大事なことから出発すべき>とは、いったいどういうことなのだろうか?
宮本氏も、ここを疑問としてとらえながらも結論は出ていないのだが...
チェーホフ自身が、死ぬ5カ月前ほどにかつての恋人に宛てた手紙の中に、
そのヒントがあるのではないかと推測している。

ごきげんよう。なによりも、快活でいらっしゃるように。
人生をあまりむずかしく考えてはいけません。
おそらくほんとうはもっとずっと簡単なものなのでしょうから。

人生は、自分が考えているよりも、もっともっと簡単なものなのかもしれない。
小さな事で右往左往しているのは、人間だけではあるまいか...
大空を風が吹きわたっていく。
木々がゆらゆらとゆれた瞬間に頭上から何かが降ってきて、肩に当たった。
そしてまた苔の上にぱらぱらと降ってきた。
それは白い小さな花だった。

生命は絶えず生まれ成長し、そして老いて死んで朽ちていく。
生死以外は、たいした問題ではないのかもしれない。
小さなことで一喜一憂しているのは、人間だけかもしれない。
地面の上には、多くの生命の生死が横たわっていた。