『あすなろ物語』

神田でタッキーと久しぶりの再会。
不景気の中で自分の会社を守ることだけでも大変な苦労をしている中
イカリエンテの生活のこと仕事のことを、真剣に考えてくれている。
今は具体的に書けないが、いろいろと相談に乗ってもらった、。


最初の会社を事業縮小という口実のもとに切られたときも...
次の会社の経営が厳しくなりを辞めざるを得ない状況になったときも
ずっとずっとタッキーには守られ、いろいろな形で応援してもらってきた。
こちらは何の役に立たないばかりか迷惑ばかりかけてきたのに...
なんでここまで...というくらい...
言葉では表現できないくらい、感謝しています。ありがとう!
ランチをごちそうになって別れた後、F氏の事務所へ...
F氏もまた心配をしてくれて、今後のために様々なアドバイスをしていただく。


乗換駅の渋谷で久しぶりに献血ルームに寄り、
待合室でコーヒーを飲みながら『あすなろ物語』を読み終わる。

あすなろ物語 (新潮文庫)

あすなろ物語 (新潮文庫)

宮本輝氏の文学の原点になっているというこの小説を、この歳になって初めて読んだ。
宮本氏が中学生2年生のときに、親戚の家で母が睡眠薬自殺をはかった夜...怖くて病院には行けず...
たまたま友人から借りていた『あすなろ物語』を押し入れの中に籠って何度も読み返したという。
その後、宮本少年は憑かれたように読書にのめり込んでいく。
エッセーでは、その日の母の自殺未遂と『あすなろ物語』との出会いがなかったら、
作家になっていたかどうかもわからないと独白している。

鮎太と祖母りょうの二人だけの土蔵の中の生活に、冴子という十九歳の少女が突然やって来て、
同居するようになったのは、鮎太が十三になった春であった。(中略)
鮎太はなんとなく不可ないものが、静穏な祖母と自分の二人だけの生活を撹乱しにやって来たような気がした。
そうした冴子への印象は、彼女の初対面の時の印象から来たものか、冴子という少女に対する
村人の口から出る噂がそうしたあまり香しくないもので、それがいつとはなしに、
鮎太の耳に入ってきたことによるのか、それははっきりしなかった。あるいはその両方であったかもしれない。
                         井上靖あすなろ物語』 <深い深い雪の中で>

小説の冒頭の数行だけで、どきんとする。
自分が思春期に入っていく少年に戻って、小説の中に引き込まれてしまう。
冴子は近くの旅館に滞在している加島という大学生に恋をする。そして、鮎太に何度も恋文を届けさせる。
鮎太は、その大学生に「克己」という言葉を教えられ、猛然と勉強をはじめる。
ある夜、冴子が祖母から素行をとがめられた後...

冴子は彼女と鮎太の二人の寝床が敷いてある方へやって来ると、やがて着物を脱ぐ音が暗闇の中から聞こえてきた。
「どこへ行って来たの」
鮎太は小声で、寝床にもぐり込んだ冴子に声をかけた。すると、冴子の上半身が鮎太の蒲団の中にはいって来た。
そして冴子の顔が、鮎太の耳許にかぶさて来たかと思うと
「トオイ、トオイ山ノオクデ、フカイ、フカイ雪ニウズモレテ、ツメタイ、ツメタイ雪にツツマレテ、
ネムッテシマウノ、イツカ」
そう言うと、冴子はまた自分の寝床の方へ引き上げて行った、そして、
「早く眠んなさい。明朝早いんでしょう。起きたら、直ぐ、お砂糖湯を飲めるようにしておいて上げるわよ」
と言った。それは本当の姉のように優しい口調だった。鮎太は生まれてこれまで、
これほど愛情深い労わりのある口調の言葉を耳にしたことはなかった。

自分が十三歳の少年になった気持ちでどきどきしながらカタカナの部分を何度も読み返す..
そして夏が過ぎ、冬が来て...山奥で心中があったことを知った鮎太は、友だちを引き連れてそれを見に行く。
それは、冴子と加島であった。

自分に今までに一番大きいものを与えてくれた二人の人間が、同時に、同じ場所で死んでいることが、
鮎太の心に悲しみよりももっと大きい得体の判らぬ衝撃を与えていた。
二つの全く異質なものが、雪に包まれて、息をひそめている感じだった。
気がつくと、二人の死体の右手に、杉の木立に混じって、翌檜(あすなろ)の老樹が一本だけ生えていた。
鮎太はいつか冴子が家の庭にある翌檜の木のことを
「あすは檜になろう、あすは檜になろうと一生懸命考えている木よ。
 でも永久に檜にはなれないんだって!それであすなろと言うのよ」
と多少の軽蔑をこめて説明してくれたことが、その時の彼女のきらきらした眼と一緒に思い出されて来た。
あすなろの木の下で二人が横たわっているそのことに何の意味があろうはずがなかったが、
その木の命名のお哀れさと暗さには、加島の持つ何かが通じているように鮎太には思われた。
この二人の死を超えて行かねばならない。己に克って人生を歩んで行かねばならない。
中学に入って沢山本を読まねばならない。
そんないろんな昂った感情が入り混じって、いっせいに鮎太の心から噴き出し、
それが鮎太をそこに棒立ちにさせていた。

六章からなるこの小説で、鮎太は六人の女性と出会う。
そのそれぞれの出会いの中で、鮎太の中に新しいものが生まれ育っていく。


あすなろという哀しい木の名前を命題として、鮎太の少年期から青年期を描いた小説は
懸命に生きようとしながらも、思うに任せぬ人生の哀しみと、それでも希望を見だそうとする人間の美しさが
多くのあすなろたちの生きざまを通して胸に迫ってくる。


自分は、あすなろの心を忘れてはいないか...諦めてはいないか...自分に問いかけるが、答えは曖昧である。
今の姿がどうであれ、その心を忘れてはならない。
周囲で自分を守り応援してくれる人たちの心を、夢々忘れてはならない。


深夜...K君からの携帯メール。
自分などよりずっと苦労をしている彼の、思いやりにあふれた短いメッセージが涙でにじむ。
「己に克って人生を歩いて行かねばならない」
鮎太の決意が、心の底から湧きあがってくるのを感じる。