待たれる身に堆積するもの

平日は見舞いに行けないので、週末はできるだけ母中心の生活
母のところに顔を出して、買い物などの用事を聴いて
実家に行ったり、スーパーに買い物に行ったり...
普段、家事はまったくしないので要領が悪くて、時間がかかってしまい
スーパーで買い物をして駐車場に出たら、夕陽が沈んでいくところだった。

母は待ちわびているのだろうな...
子どもの頃、帰りがいつもより遅くなると
心配性の母は、いつも家の外に出ていつまでも帰りを待っていてくれた。


鷲田清一氏が、「待つ」ということへの考察の中で「育児」を一例にあげているが
待つ待たれるという関係が無条件に許されるのは、やはり親子ということなのだと思う。

ひたすら待たずに待つこと、待っているということも忘れて待つこと、
いつかわかってくれるということも願わず待つこと、
いつか待たれていたと気づかれることも期待せずに待つこと。
 家族というものがときに身を無防備にさらしたまま寄りかかれる存在であるとしたら、
この、期待というもののかけらすらなくなってもそれでもじぶんが待たれているという感覚に
根を張っているからかもしれない。
その根がときにあっけなく朽ちてしまうとしても。
その根がときにもっとも残虐なかたちで切り裂かれてしまうとしても。
ただ、待たれるほうからすれば、それは何かがすこしずつ堆積していく時間である。
  鷲田清一『待つということ』

そして、いつも母はいつでも忍耐強く待ち続けてくれた。
黙って待たれる自分の内には、待たれることで堆積してくものがある。
先日の日記にも、宮本輝氏の文章を引用したが
「母という雪」が自分の内に降り積もっているのである。
その雪は眼には見えないけれど、自分はその雪の気配で安心して生きていける。



病院に帰ると、元気になった母は周囲のベッドの人にしきりに話しかけている。
向かいのベッドは、99歳の笑顔のかわいらしいおばあちゃん。
煙草が大好きで、家の外に煙草を吸いに出ようとして転んで大腿骨を折った。
病院では煙草がすえないので、退院して煙草を吸うのを楽しみにしている。
斜め向かいの79歳のご婦人には、いきなり「イケメンさんね〜」と言われる。
腰の骨の圧迫骨折で入院されているが、旅行が好きだったようで
20年前にご主人と行かれたカナダのレイク・ルイーズを薦められる。
スマホで検索して画像を見せると、大感激...
...数日後、退院していく彼女が、母に
 「あなたの息子さん好きになっちゃったわ」と言われていたとか...
 ババ殺し...年齢の上限はないようだ...


時間ぎりぎりまで、おばあちゃんの座談会に楽しくつきあって、病院を後にする。