母の手術

昨日の夕方、仕事中に見知らぬ番号から着信
出てみると、旭区の病院から..「明日は何時に来られますか?」と...
とっさに一昨日の母の電話を思い出す。
外で転んだのだけど、骨は大丈夫だよね?と...
歩いて帰ってきたというし、腫れもないというので、多分骨折ではないと思い
様子をみて、電話をくれるようにと言った。
昨日、電話がなかったので、打身くらいで済んだのかと思い
飲みに行ってしまった。


電話をしてきた病院の事務員の話が要領を得ないので、実家に電話
妹が出て、母が大腿骨骨折で昨日救急搬送されて入院...明日手術だという。
なんで、そんな大事なこと連絡くれへんねん...
きっと、息子に迷惑をかけまいとして、自分で処理したに違いない。
認知症が始まっている父だけが心配で、妹にだけ連絡が行ったという


大腿骨が折れていて、団地の2階まで上がるのは相当な痛みだったと思うし
翌日まで、救急車も呼ばずに痛みに耐えていたとは...


面会時間には間に合いそうもないので、家族に病院まで行ってもらう。
翌日、手術の時間は出張で立ち会えないので妹に頼み、出張帰りに病院へ...
全身麻酔の後で朦朧としているなかで「迷惑かけてごめんね」と...


母は苦労人である。
昭和12年 八丈島で8人兄弟の7番目として生まれ、中学校を卒業後すぐに横浜に出てきた。
野毛のお菓子屋の丁稚奉公で、住み込みで働いていたが
服も履物も買えないくらい給金は安く、ずいぶんといじめられたという。
23歳で結婚し24歳でムイカリエンテが生まれるが
父は自由奔放な人だったので、経済的にはずっと苦しかったようだ。
少し安定してきた頃、突然会社を辞めて独立...
そこからが地獄の始まりだった。
技術には自信をもっていた父だったが、商売は全く駄目で
家にお金をほとんど入れなくなった。
貯金は底をつき、食うにも困るような生活がずっと続いた。
父は工事関係の仕事だったので、長期に主張してしまうことが多く
米も買えない母は、野草を摘んできて料理したり、パンの耳をもらってきたりして
育ちざかりの自分たちの腹を満たしてくれた。
米は普通に炊くと早くなくなるので、ほうじ茶でおかゆを作って毎日食べた
味があるので、おかずがなくとも食事をした気分になれた。
そんな貧乏生活をしのいだのは、母の忍耐と知恵だった。


自分が苦労したから、子供たちには苦労をさせたくない...
そんな気持ちが強すぎる。
実家に顔を出せば、近くの農家から野菜を安く買ってきて山のように持たせてくれる。
出張のお土産を買っていっても、喜ぶどころか、無駄なお金を使うなと怒られる。
親孝行らしきことは、ひとつもしていないのに...


母と一緒に写った写真が一枚手元にある。
50年も前の写真だけれど...
自分の手元にある写真で、二人で写っているのは、これしかないのだ。

この母の優しい眼差しは、ずっと変わらない
こうしていつでも、後ろから支え続けていてくれる。
一緒に居られる時間は少なくなってしまったが、
それでも、常に母は自分にとって一番の理解者であることは変わりない。
本当にありがたいことだ。
母の愛の前には、ただただひざまずくしかない


たくさん苦労をした分、幸せな老後であってほしい


  

  母よ、
  淡くかなしきもののふるなり
  紫陽花いろのもののふるなり
  はてしなき並樹のかげを
  そうそうと風のふくなり
    三好達治『測量船』乳母車より

さあ、そろそろ病院に行くかな...