天命について...

自転車で近隣を散策...
休耕地に蓮華草が咲いているのをみつけ
あぜ道にあった石に腰かけて一休み。
花の間を蝶や蜂が飛び交っている。
離れたところから撮っても雑草ばかりで
よくわからないので、
いっそ虫になった気分で、花の下から
空を見上げるように写真を撮ってみる。


青空を見上げながら
先日日記に書いた「天命」という言葉を思い浮かべる。
「五十にして天命を知る」...
自分の天命とは、いったい何なのだろうか?
転職に失敗し続けて挙句一年も浪人しているのも天命なのだろうか?

孔子 (新潮文庫)

孔子 (新潮文庫)

家に帰って、一年前に読んだ井上靖の『孔子』をめくり、書きこみがしてある部分を読み返す。
孔子の人生においての五十代は、いかなる時代であったのか...
それまで生国の魯において教育者として名をあげ、52歳で土木の長官として抜擢。
魯の定公の補佐として外交に勤め、その手腕をふるって力量を認められた。
その後、国の病患となっていた王族の支配にメスを入れ王政復活に成功するが
旧勢力の巻き返しによって政策は失敗し、失脚してしまう。
果たして55歳にして国を追われる形で放浪の長い旅路につくことになる。
14年後、故郷に立ち寄った際に当時を思い起こして言った言葉が、「五十にして天命を知る」だった。
つまり、人生最悪の苦境の中で「天命」を知ったということになる。
天命について、弟子の蔫薑(えんきょう)が語りだす部分がある。

人間はこの世に生まれて来た以上、生まれたことを意義あらしめるために、
己がこれと信じた一本の道を歩むべきである。
その場合、それを天からの使命感によって支えることができたら、素晴らしいことである。
と言って、天はいかなる援助もしてくれるわけではないし、
いかなる不運、迫害も防いでくれるわけではない。
こういうことを理解するのを"天命を知る"というのであります。(中略)
子はご自分が生きておられる未曾有のこの乱世には、絶望に近い思いを持っておられたと思います。
そのような乱世ではあるが、人間はそうした乱世にても、なお正しく生きなければならぬ、
子はこのようにお考えになっておられた筈であります。
そして、その乱世哲学の根源に"天命"なるものを置き、その"天命"によって、
すべてを説明しようとされたのであります。

自分が生まれてきたことを意義あらしめるため、生きるべき道...
いかなる障害や迫害があろうとも貫くべきこと...
孔子がそのことに気がついたのは、50歳を過ぎて人生最大のピンチに陥った時...
蔫薑は架空の弟子であるから、事実がどうであったかは別として、
井上靖氏の"天命"に対する深い洞察がここにある。
生命を揺さぶられるような大きな衝撃があって、はじめて"天命"を知るのだな。
そう考えると、自分はまだまだ何もわかってはいない。
が...いまこうして浪人として放り出されているのも、何か意味がありそうな気がする。
「正しく生きなければならぬ」ということは、常に目指してきた。
もちろん完ぺきではないし、穴だらけで人を傷つけたりしたこともあるだろう..
しかし悪を避け、悪を責めた故に会社を追われたこともある。
正しく生きようとするなかにしか、"天命"を知ることがないようにも思う。
では「正しさ」の基準は何だろう...

いま思うに、子はいつも、人間のことばかりお考えになっておられました。
人間の幸せについて、不幸について。
そして人間が、特にこの乱世に生まれ合わせた人間が、少しでも幸せになるにはどうすればいいか。
いつでも、子はこの地球上に生まれて来た人間というものについて、その幸せな生き方、
生き甲斐ある生き方について考えておられました。
人間、この世に生まれたからには、いかなる時代であろうと、幸せになる権利がある。
そのようなお考えが、あらゆる子のお考えに根本に坐っていたか、と思います。

人のために...という生き方のなかにこそ、「正しく生きる」道があるのではないか...
長くなるので、今日はここまで...つづきは、またいつか...
"天命"なんて、そんなに簡単にわかるはずもないし...