桜...老いるということ

昨日の暖かさが嘘のような寒い一日。
町内を歩いていると、
いままで気が付かなかった遊歩道のわきで
桜が満開になっていた。
白い花弁で軸の根元あたりが薄いピンクの花は、
ネットで見ると小汐山桜という山桜に似ている。






先日、大学院を卒業した息子は、企業の就職が決まらず...
現在見習いで手伝いに行っている設計事務所の先輩の紹介で
中国の昆明にある設計事務所で1年間働くことになった。
どちらかというと引っ込み思案で口数の少ない息子が、
いきなり言葉も通じない中国で働くことは心配でもあるが、
自分の意志で腹を決めて引き受けてきたのだから、本人を信じて同意した。
自分の就職も決められない自分には、何もしてあげることができないし..
出発は4月15日。
少し寂しくなるが...子どもが自立してくというのは、こういうことなんだな。
慣れない土地で、いろいろ苦労をするのだろうが、それもいい経験だ。


樹齢の長い桜についての水上勉の記述を思い出して文庫本のページをめくる。

櫻守 (新潮文庫)

櫻守 (新潮文庫)

「桜というもんは、大きゅうなれば、自分の身を喰うて空洞になりよる。
五十年目ごろから、皮だけになって生きはじめよる。
ひとりでに、若木が根をはる。皮の力におぶさった若木は、次第に親の根を喰うて、
親は子に根をあたえ、生きてゆくうちに一体になって幹はさらに太くなる。
百年の樹齢を生きる桜は、どれが子やら親やらわからんものとなる。
根尾の淡墨(うすずみ)は千四百年、海津のあずまひがんは五百年、
真如堂のたてかわ桜は四百年の皮で生きてよる...
あれはみな親一代の皮ではない。
子が子にうけついで親となり、またその子が受けた皮の厚さや」
                         水上勉『凩』

樹齢の長い桜が、そんなふうに世代交代しながら生きているとは...すごいことだな。
以前、樹齢百年の桜を観に行ったことがあるが↓
http://d.hatena.ne.jp/mui_caliente/20070328
たしかに皮になって、添え木で支えられて立っていた。
千年以上の桜というのもあるのだな...いつか観てみたいものだ。
生命というもののすごさを感じるために。
イカリエンテのような駄目親父は、息子に引き継いであたえるものはなにもないな...


同じ本の『櫻守』のなかには、こんな言葉がある。

「どうせ、人間はみなそらキズもんやといえばキズがありまっせ。
木イやってええ桜ほど、肌に傷がついてますわ。
キズで寿命をちぢめるのも木なら、キズで、大きく育つのも木のおもしろさです」
                         水上勉『櫻守』

キズで大きく育つ...か...
生命の法則は、木でも人間でも同じものが流れているように思う。

「心に傷をもたない人間がつまらないように
 あやまちのない人生は味気ないものです」
                         山本周五郎『橋の下』