『桜の森の満開の下』

先日購入した『文豪さんへ』に収録されていた坂口安吾の名作。
桜の森の満開の下 (講談社文芸文庫)
青空文庫にも、全文が掲載されていた↓
http://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/42618_21410.html


桜の木の下で起こる、奇怪な物語。
起承転結もよくわからない不思議な文章なのに、その凄みと美しさにぐいぐいと引き寄せられてしまう。


山賊の男がさらってきた8人目の女は、鬼であった。
その美しい女は、山賊に命じてそれまでの女房を次々に殺させる。そしてその首で遊び始める。
そして山を降り、町に住んでもまた男に盗みをさせ、人を殺させ、首で遊び続ける。
残忍でありながら、満開の桜がモチーフになっているためか、何故か恐ろしさを感じない。
山に戻る途中で、男が背負った女は、桜の森の満開の下で鬼の正体を現す。
男は必死で鬼を絞め殺すが、殺した瞬間に再び美しい女の姿に戻る。


鬼が女に化けたのか...女の中に鬼がいたのか...
桜の樹の下の不思議な空間は、人の生命の奥に潜むものを露見させてしまう。

 桜の森の満開の下の秘密は誰にも今も分りません。あるいは「孤独」というものであったかも知れません。なぜなら、男はもはや孤独を怖れる必要がなかったのです。彼自らが孤独自体でありました。
 彼は始めて四方を見廻しました。頭上に花がありました。その下にひっそりと無限の虚空がみちていました。ひそひそと花が降ります。それだけのことです。外には何の秘密もないのでした。
 ほど経て彼はただ一つのなまあたたかな何物かを感じました。そしてそれが彼自身の胸の悲しみであることに気がつきました。花と虚空の冴えた冷めたさにつつまれて、ほのあたたかいふくらみが、すこしずつ分りかけてくるのでした。
 彼は女の顔の上の花びらをとってやろうとしました。彼の手が女の顔にとどこうとした時に、何か変ったことが起ったように思われました。すると、彼の手の下には降りつもった花びらばかりで、女の姿は掻き消えてただ幾つかの花びらになっていました。そして、その花びらを掻き分けようとした彼の手も彼の身体も延した時にはもはや消えていました。あとに花びらと、冷めたい虚空がはりつめているばかりでした。

 頭上に花がありました。
 その下にひっそりと無現の虚空がみちていました。
 ひそひそと花が降ります。
 それだけのことです。


なんという言葉の美しさ...
人間というものの儚さや愚かさや寂しさが、虚空に溶けていく...


満開の桜の下は、なぜか森閑として不思議な静けさに包まれている。
3年前に長野の高遠で感じた不思議な感覚が、ふと蘇ってきた。
今はこんなに寒いけれど、あと2ヶ月と少しで桜の季節が始まる。

2007年4月 高遠城址にて...