因果俱時

新しい会社に入って一週間はとにかく疲れて、帰宅しても何もやる気になれず...
ブログもすっかり休んでしまった。
一番疲れるのは生活のリズム、通勤経路が変わって出勤時間が変わって、
朝の早い会社なので、早起きをしなければならない。
8:45始業なので6:40に家を出て8:00過ぎくらいには出勤するようにしているが、それでも遅い方。
社長は毎日6:30に出勤し、ムイカリエンテの上司も6:45には来ているという...
睡眠時間が少なくなるので、なんだかいつも眠い。
いままでが余裕ありすぎだったのかな〜? とにかく慣れるしかない。


通勤電車で5年ぶりに読み直した宮本輝の『睡蓮の長いまどろみ』
イカリエンテも、電車では長いまどろみ...
睡蓮の長いまどろみ〈上〉
出口のないような暗い宿命でも、闘うと決意すれば変えられるという強い心を感じる小説である。
最初に、辻井喬氏が書いたこの本の後書きを引用したい。

宮本輝は出発の時から、生まれながらの差によって人が受けなければならない悲しみや苦しみを描いてきた。
その描き方は、いかにしてその差をはね返し、自らの人生を肯定的なものに変えてゆくかを動機として秘めながらも、
それを親子や男と女の愛と憎しみの関係の中で確かめていくという方法で貫かれていた。

「私の中にはたくさんの私がいる。それは百人かもしれないし、五百人かもしれない。
 いや千人、もしくは三千人の私があるなら、その三千人を私は生きたい」
そう言い残して、主人公順哉の産みの母親である19歳美雪は、子供を残して家を出てしまう。
育ての母の深い愛情に包まれて育った順哉。43年の時を経て、母と子が語り合う時がくる。
母もまた、生まれたばかりで父が子供を捨てて愛人の元に走り、母は間もなく亡くなって、
親戚の家をタライ回しにされ、教育も受けられず苛められ蔑まれて生きてきたのだった。

「私は私を成すものの力次第で、何百何千もの人生を選ぶことができる。
 それが否応なく与えられたものであろうとも、よしんば自分で選んだものであろうとも、
 私は自由自在に自分の人生を作っていけるはずなのに、何を怯えているのか...。
 宿命は変えられないと、誰が決めたのか...。
 不変の宿命にいいように牛耳られると決まっているなら、
 人間という生物なんてこの宇宙では無用 じゃないのか。(中略)...」
宿命などというものに負けてたまるかとひそかに心に期した途端に、そんな私を試すかのように、
いや、あざ笑うかのように、宿命はこれでもかこれでもかと襲って来たのだと、美雪は言った。
「私が闘おうと決めたからよ。だから宿命は私をねじ伏せにかかったのね。
 宿命ってのは、それぞれの人間のなかで生きてる生き物なのよ。飼い主はその人自身....。
 そのことが、この歳になってやっとわかってきたわ」

宿命などというものに負けてたまるかと決めたとたんに、次々と宿命が襲ってきた。
この小説の大きなテーマになっているのは、蓮の比喩で使われる『因果俱時』。
一般的な植物は花が咲いて、受粉してから実がなっていくが、蓮は花が咲くと同時に実がなっている。
原因と結果は同時に備わっているということの例えとして、仏教ではひとつのシンボルになっている。
決意した瞬間に人生を大きく変える原因はすでにできているということだ。


自分の宿命というものを改めて実感し、向き合ってきた一年間。
仕事が変わったのは環境が変わったというだけで、
自分の生命の奥深いところにある宿命は大きく変わったわけではないのだが...
自分を縛る宿命と向き合って、そして闘っていけば、自在な人生が送れることは間違えないように思う。
宿命の飼い主は、ほかのだれでもない自分なのだから。