親の溺愛

土曜日に一緒に飲んだNANAさんのお宅では、
高校1年生のお嬢様までがこの日記を読んでいただいているそうである。
最年少15歳、最年長は同級生のお母様バアバ様なので、年齢の幅は広いなぁ〜、しかも女性がほとんど...
先週は、飲んで食べて遊んで...の話ばかりで、
高校生の彼女にとっては、きっと退屈な戯言にしか映らなかったはずなので
今日は少し路線を修正して、親子について書いてみたい。
わが敬愛する宮本輝氏は、お父様が50歳の時に生まれた一粒種で、小さい時から溺愛されて育った。
それは小説やエッセーにも度々書かれているとこだが、
今回はシルクロードを旅した紀行文の中から、1節を紹介したい。
ひとたびはポプラに臥す(4) (講談社文庫)

シルクロードを旅する宮本輝氏の一行は、天山山脈を沿って西に走る。

竜巻が道の両脇に発生した。南に七つ。北に五つ。...
ゴビ灘の竜巻は、正しくは沙竜と呼ばれる。
黄河を「暴れ竜」と称するならば、ゴビの竜巻は「砂の竜」というわけだが、
砂が竜になってのぼる姿を想像する心の余裕は、もう私にはなかった。
何故か天山の郊外で見た巨大な白豚の残影ばかりが心をよぎり、
黄土高原のあまりにも貧しい農村のたたずまいと
ひとりで洗濯物に話しかけていた少女の孤独な姿が浮かんだ。
あの少女は、洗濯物と、どんな話をしていたのだろう?
いまの日本にそんな少年少女がいるだろうか。貧困は罪悪だ。けれども、豊すぎるのも罪悪だといく気がする。
私は両親に溺愛されて育った。あんな甘やかしていると、ろくなやつにはならない。 
そういう陰口を言う人がたくさんいた。
けれども、私は両親の溺愛を「砂の竜」を見つめながら思い浮かべ、少しの間泣いた。
いかなる言葉をもってしても尽くせないありがたさを感じた。
抱きしめて「お前は可愛い子だ」と何度も言ってくれた。「お前が死んだら、私たちも死ぬ」とも言った。
私が、ここが痛いと訴えると、いつまでもそこをさすってくれた。それを幸福と言わずして何と言おう。
あの天水の少女も、貧しいけれど父や母に抱かれて、深い眠りについているかもしれない。
日本の子供たちは、冷蔵庫にひしめいているレトルト食品を腹いっぱい食べ、
テレビゲームと残虐で卑猥なコミックを楽しみ、
溺愛は幼児教育の敵だとのたまう口舌の徒たちのご高説を信じる親から中途半端に大事にされ、
真の人情の機微に触れず、可愛がり方を学ばず、愛し方もほめ方も、ケンカのやり方も知らずに育っていく。
親子は友達ではない。親子は、厳然と親子なのだ。

イカリエンテも幼い頃に母に抱きしめられた感覚は、今でも鮮明に記憶に焼きついている。
子供を溺愛するということは大事なことなのだ。
シルクロードに沿って生きる貧しい人々の生活の中には、ただ人間らしく生きる姿がある。
それに引き替え、日本の教育は、どこで道を踏み外してしまったのだろうか?
家庭教育も学校教育も...偏差値で人間の価値を振り分け、
愛情のかけらもない無機的な情報だけが押し付けられる。
歪んだ教育からは、人格も心の豊かさも育たない。


「いかなる言葉をもってしても尽くせないありがたさ」
その心を向けられる人がいるというだけで人は幸福でいられるのかもしれない。