『勇気ある人々』

アメリカでは、大統領選でのヒラリーとオバマの舌戦が繰り広げられ
国民も大いに盛り上がっているようである。
そんな中、J・F・ケネディの著書が出版された。
勇気ある人々
タイトルは『勇気ある人々』
ケネディ上院議員時代の1955年、かつての勇気ある上院議員の行動を記した本である。
ケネディの名スピーチは、この日記でも何度か取り上げてきたが、著書は初めて読む。
スピーチのように、冒頭から力ある言葉で切り出す。

私が本書のテーマにしたのは、人間の様々な美徳の中で最も素晴らしいもの...勇気だ。
その勇気を、アーネスト・ヘミングウェイは「重圧のもとでの気高さ」と定義している。

世界が緊張の中にあった時代、アメリカ大統領の決断が核戦争の勃発の可能性さえはらんでいた時代。
その重圧たるや想像を絶する。大事なのは「勇気」であると結論する。
弟、ロバートは序文で兄を語る。

勇気。これこそ、ケネディ大統領が最も大切にしていた美徳だ。
ケネディ自身が探し求めていたのは、
戦場であれ、野球のフィールドであれ、演説であれ大義のための戦いであれ、
その場に臨んで、自らが勇気の持ち主であること、信念を変えない人間であること、
そして信頼に足る人物であることを、なんらかのかたちで示した人たちだ。(中略)
アンドリュー・ジャクソンはこう言った。「一人の勇気ある人間が世の巨大なうねりを起こす」
ケネディ大統領がまわりの人たちに与えた効果も、まさにこれだ。(中略)
ケネディは信念や勇気、そして助けを求めている人たちの力になろうとする意欲の持ち主であり、
同時に、祖国に対する心からの純粋な愛情の持ち主であった。(中略)
兄の生涯やその死から学ぶべき教訓があるとすれば、
それは、われわれの住むこの世界では、誰一人として傍観者、
つまりフィールドの外にたたずむ批評家でいることは許されないということだ。
トーマス・カーライルは次のように書いている。
「われわれが望み大切にしている勇気というのは、心安らかに死ぬ勇気ではない。
 それは決然と生きる勇気なのだ」

我賢しという顔で、他人の戦いを嘲笑い、批評ばかりしているような傍観者に、偉大な人物は絶対にいない。
テレビによく出るコメンテーターとかいう怪しげなポジション。傍観者そのものにもかかわらず、物知り顔で偉そうなことを言う。「お前がやってみろ」とひとりごちてしまう。
さて、日本の政治家はどうか?
他者の批判をすることで外見を繕う偽善者、自分は特別な人間であると勘違いする愚か者...
そんな輩があまりにも多い。真に勇気ある行動をできる人間がどれだけいるのか?
親の地盤を引き継ぐなどという安易な選挙で出てきた人間に
政治生命をかけるなどということができるのだろうか?
政治だけでなく、社会全体に偽善やエゴがはびこり、そして傍観者になってしまっている。
勇気ある闘いは後から評価されるもので、
その闘争の渦中では人から馬鹿にされ批判されてきたのが人類の歴史かもしれない。

勇ましいものは いつでも滑稽だ 
     小林秀雄『人生の鍛練』

ケネディが語るのは政治家としての生き方についてであるが、
私たちはそれを自分の生き方に置き換える必要があるだろう。
イカリエンテ自身も、まだまだ周囲の評価を気にしたりする臆病なところがある。
「決然と生きる勇気」「重圧のもとでの気高さ」その覚悟の中に人間としての勝負があるように思う。
心の中心にこの言葉を据えて、闘いをはじめよう。