少年の感じた色香

冷気が空から降りて来て、山々を包んでいる。三重でも木々一気に色づいた。
昨日読んだ『泥の河』を引用してみる。
昭和30年の大阪。
廃船に小屋を乗せた屋形船で、泥のような運河を転々としながら暮らす母と姉弟
母はべニアで仕切った向こうの部屋で、体を売って生計を立てている。
河岸のうどん屋の息子信雄は、目の前の川に住み始めたこの姉弟と出会う。
初めて舟の家に遊びに行ったとき、渡しの手前で信雄はぬかるみにはまってしまう。

信雄より二つ三つ歳上の、色の白い少女が舟の家から顔を出し、
前髪を両手で左右にかきわけながら信雄を見た。目元が弟とよく似ている。
「あそこのうどん屋の子ォや」
対岸に見えている信雄の家を少年は姉に教えた。
少女は舟から出てくると、黙って信雄を舳先のところまで連れて行き、坐らせて足を川に突き出させた。
そして舟の中からひしゃくで水を汲んできた。
「お名前なんていいはるのん?」
そう言って少女は信雄の足に水をかけた。
(中略)
少女は丹念に信雄の足を洗った。水がなくなると舟の中に入っていき、また水を汲んでくるのである。
少年が川の水を汲み上げてズック靴洗ってくれた。
信雄は流れてきた西瓜の皮をぼんやり眺めながら、されるままになって足を投げ出していた。
日溜まりに坐っていると急に汗が滲んできたが、体の底には寒気があった。
夜、また熱が出るかもしれないと信雄は思った。
少女が信雄の足の指をそっと開き、ちろちろ水を注いだ。
信雄は、こそばい、こそばいと大袈裟に身を捩ってみせた。
そしてそのたびに笑い返してくる少女の顔を何度も横目で盗み見た。
「さあ、きれいになったで」
少女は粗末な服の裾で信雄の足を拭いて言った。
「信雄ちゃんの睫毛、長いなぁ...」
信雄は顔を赤らめて、「僕のぶちゃんや」とつぶやいた。

姉の銀子との甘くせつない出会いである。

またある時、舟の家に遊びに行ったとき姉弟はおらず、
決してべニアの向こうから母親に呼ばれる。

「のぶちゃん、こっちへ廻っといで」と母親は呼んだ。
信雄とはいつもべニア板越しに話をするだけで、まだ一度も母親の姿を見たことはなかった。
信雄が躊躇していると、母親がまた呼んだ。
「どないしたんや?遠慮してるんか?」
・・・(中略)
信雄は正座して姉弟の母親を見た。
櫛目のきれいに通った艶やかな髪の毛をぎゅっとうしろにひっつめた、貞子(信雄の母)よりもずっと若い女が、畳んで重ね上げた蒲団にもたれかかって信雄を見つめていた。
「のぶちゃんの顔見るのん、初めてやな」
と母親は言った。信雄は頷きながら部屋の中をちろちろ見廻した。
蒲団と粗末な鏡台だけの殺風景な部屋だったが、信雄がかつて嗅いだこともないような甘くて湿っぽい、
それでいてけっして心楽しくはない香りが漂っていた。
・・・(中略)
信雄は、母親のこめかみにへばりついたほつれ毛の中から。一筋の汗が伝い落ちていくさまに心を奪われた。
青白い化粧気のない顔は、信雄にも美しいものに映った。
細長い首や白蝋のような胸元にも、うっすら汗が噴き出している。
川風が間断なく通り過ぎていく涼しい日であった。
鉛色の曇り空がだんだらになって動いている。川もまた茶色にくすんでいた。
部屋の中にそこはかとなく漂っている、この不思議な匂いは、
霧状の汗とともに母親の体から忍び出る疲れた、それでいてなまめいた女の匂いに違いなかった。
そして信雄は自分でも気づかぬまま、その匂いに潜んでいる疼くような何かに、どっぷりとむせかえっていた。
信雄は落ち着かなかった。と同時にいつまでもこの母親の傍に坐っていたかった。

悪臭が湧いてくるような泥の河に浮かぶ薄暗い舟の家の中で、
なまめかしい匂いだけが立ち上ってくるような情景。
少年の心に芽生える異性への言葉にできない不思議な感覚。
解説も評論も寄せ付けない美しく巧みな言葉の配列。
読んでいるだけで恍惚としてくる静かな夜。

    1. +

同僚のTさんと五ヶ所湾沿いの大衆食堂で昼食をとった。
30年以上はやっているのではないかという古びた食堂。
雑然とした店内。地方のおみやげやら高校野球のテナントやらがごちゃごちゃに並ぶ。
壁にサミュエル・ウルマンの詩『青春』が額に入って飾ってある。
中華そばは昔懐かしい味、ちとしょっぱいのは海辺のせいか?
昭和40年代の味がする。

Tさんはムイカリエンテの日記の読者である。
イカリエンテの言葉はどうも読みにくいらく、飛ばし読みするという。
「でも、時々勇気が出る言葉があるんです。頑張らなきゃいけないと思う」...と一言
嬉しい感想である。文章が拙くて、引用の言葉ばかりであるが
たった一人でも、何かを感じてもらうというのは、日記を書いている甲斐があるというものだ。
ウケ狙いでもコメントほしさでもなく、自分が感じたこと書きたいことを書いているのだが...
これからも、もっと自分を磨かねばと思う。