只今臨終の覚悟

24歳になる姪が、癌の疑いがあるということで検査を受けた。
イカリエンテの妹の一人娘である。
妹からの電話は声が震えていた。
子供の病というのは、自分のこと以上に耐えがたく苦しいものである。
しかし、結果がどうあろうと覚悟を決めて共に闘うしかない。親子だから...
生死を離れて人生はないのである。そして、生死を離れたところに幸福もないのである。
宮本輝氏の「覚悟」という随筆を思い浮かべる。
新装版 命の器 (講談社文庫)

日蓮が、門下にあてた手紙の中に、『日輪のごとき智者たれども、若死あらば生ける犬に劣る』
という一節がある。また別の手紙には、
『百二十まで持ちて名を腐して死せんよりは、生きて一日なりとも名をあげん事こそ大切なれ』とも書いている。
一見矛盾しているようであるが、私にはどちらも真実だと思える。
死んではいけない。長生きをしなければ結局は負けだ。
けれども、たとえどんなに長く生きても、いかに生きたかが重要である。
これは、私が芥川賞を受賞したあと結核で入院生活を余儀なくされたときに、
病院のベッドに臥しながら、あるいは病院の中庭をとぼとぼ散歩しながら、
自分に言い聞かせた言葉である。
生まれつき体が弱かったことと、二十五歳のときに突然不安神経症という病気にとりつかれた私は、
自然に死と隣り合わせのような心境で今日まで生きてきたのだと思う。
だから、若死にをすれば生きている犬に劣るという日蓮の言葉は、
残酷なまでに私を打ち据えると同時に、不思議なほど叱咤してくれる。
どんなことがあっても、この世で自分の仕事を成し終えるまでは、生き抜かねばならぬ。
そう強く己に鞭打つのである。
そんなとき思い浮かべる短い詩の一節がある。
私の文学仲間であり、昭和51年に55歳で亡くなられた礒永秀雄さんの詩である。
   「ただいま臨終!」
    この厳しい覚悟に耐えられずして
    どこに人間の勝負があるか     
私はこの詩を口ずさむたびに、いつでも死んでみせるという覚悟を持って、
うんと長生きをするのだ、と烈しく決意するのである。

人間は必ず死ぬ。自分の人生さえ、いつ終るかなど誰もわからない。
しかし、誰しもがこの世に生を受けた意味がある。使命というものがある。
それを成すまでは、生きて生きて生き抜かねばならない。
昔は、人は常に死と隣り合わせであったが、今は死というものが身近に感じられなくなって
死を厭い遠ざけるようになってしまった。つまり(死=不幸)という考え方である。
人が亡くなると「不幸があって...」という。人間、最後は不幸で終るということか?
否、使命を成して死んだ人の死は眠るようなものであり、幸福であるはずである。

妹と実家で会い、自分の宿命・自分の弱さと闘うしかないと話す。
そして、母として気丈に明るく振舞いながら、必死に祈るしかないと励ます。
「只今臨終の覚悟で、うんと長生きをする」
その生き方こそが人生を輝かせるし、幸福な生・幸福な死をもたらすのではないか。
自分は、まだまだ甘すぎる。只今臨終の緊張感に、どこまで迫れるのか?
生きることは、それ自体闘いである。
姪の無事を祈りつつ、そんなことを考えた。