別れといふこと

晴れ間が出るという天気予報をたよりに、4時に起きて日の出を見に出かける。
上空には厚く黒い雲が広がっているが、空と海の間に少しだけ隙間がある。
雲と海を染めながら、太陽が昇って行く。


太陽が昇りきって、空が赤から黄色に変わった瞬間、小さな漁船が漁に出て行く。
静かな海面に波が立つ。

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「船がつくる波」...『わかれの船』という短編集のあとがきに宮本輝が書いた随筆。
出会いの数だけ別れもあるし、出会いの歓びが大きいだけ、別れの哀しみも大きいのである。
死による別れは、どうしようもなく取り返しもつかないのであるが、
そうでない別れも、ある意味では死よりも悲しいこともある。
イカリエンテは、別れの哀しみを味わった友人に、この随筆を何度か贈ったことがある。
少々長くなるが、ほぼ全文をここに紹介したい。

わかれの船

わかれの船

いったいどれほどの別離というものを、私たちは味わってきたことであろう。
たかだか十年、たかだか二十年、たかだか三十年、あるいは四十年、五十年、六十年...。
長生きをしたところで、やっぱりたかだか七十年、八十年...。
心を静かにさせて、これまで自分の身に起こった別れというものを思い浮かべてみるがいい。
「別離」のなかった人間など、ひとりとしていないのだ。
釈迦にちなむ故事のなかに、次のような話がある。

ひとりの貧しい女が、自分のたったひとりの子供を亡くした。
まだ生まれて間もない赤ん坊だった。
この子を育てるために、女はおよそ考えられるありとあらゆる苦労を重ねたし、
これからもそれに耐えられる覚悟が崩れはしないほどに大切な愛しい子だった。

女は死んだ赤ん坊を抱きしめて、村から町へ、町から村へとさまよい歩き、
誰か私の子を生き返らせてくれはしないか、そのような力を持った者を教えてはくれないかと尋ねて廻る。
誰も、女に首を振るばかりか、死んだ赤ん坊を離そうとはしない身分の低い女の相手すらしてくれない。
やがて女は、一縷の望みを抱いて釈迦のもとに辿り着き、
この子を生き返らせてくれるなら、自分はどんなことでもする、
どうかこの子を生き返らせてくださらないかと懇願する。
女も、死んだ者が生き返らないことは充分にわかっていても、
哀しみが、そのような理性すら失わさせていたのだ。
釈迦は、よしわかった、その子を生き返らせてあげようと、深い慈しみをたたえて言う。
ただし、条件がある。この町の家々を訪ねて、香辛料をもらってくることだ。
しかし、香辛料をもらうのは、ひとりも身近な者が死んだことのない家だけに限られる。
夫や妻や恋人や、親や子や兄弟などが、たった一人でも死んだことのある家の香辛料は役に立たない、と。
女は釈迦の言葉を耳にするなり、赤ん坊を抱いたまま、町へと急ぐ。
釈迦が指定した香辛料は、どんな家にもある、ごくありふれたものだったからだ。
女は朝から晩まで、家という家を訪ね歩くが、一粒の香辛料も手にすることができない。
愛する者と、あるいは身近な者との死別を経験しなかった人間など、ただのひとりもいなかったからだ。
やがて日が暮れてきたころ、女は知る。愛する者との別離に悶え苦しむのは、自分ひとりではない。
生きとしいける者すべては、さまざまな別れから解き放たれることはないのだ、と。
女は自分の赤ん坊を埋葬し、釈迦のもとに帰り、釈迦に帰依した。

有名は故事であるが、この故事の意味するところは、極めて深遠である。
何人も避けることのできない、死による別れさえも、
人間は実際に直面すると、理性など何の役にも立たないほどの哀しみや苦しみにひたる。
死はあきらめきれるが、あきらめられない別れというものは、死の何十倍もの数で、いつも我々の近くにある。
あきらめられるし、あきらめるしかないのだが、それでもなお、いつまでも体中が疼き続ける別れもある。
文学が結局は、死と恋に集約せざるを得ないのは、その哀しみと、そこから得るものが、
数学の試験の採点のように、一プラス一イコール二とはならないからであり、
いかなる言葉を尽くしても、自分の心を表現することができないからであり、
「別れ」がなぜか個々の人間のグラスを、ほんの少し大きくしてくれるからである。
どんな言葉を尽くしても表現できないからこそ、人間は「文学」などというものを発明したのだというのが
私の持論だが(中略)
みずから選択したかに見える「別れ」も、生木を裂かれるような「別れ」も、憎しみの果ての「別れ」も、
計算された小粋な「別れ」も、流されるままに別れるしかなかった「別れ」も、
人間という謎めいた船が暗い水面に残す波に似ていることに気づく。
船が通って行ったあとの、あの静かに二つに別れて離れていく波である。
船と波とは別々のもののように見えるが、波は船から生じたのだ。
謎めいた、人間というものから生じたということになる。

井伏鱒二氏の名訳で知られる于武陵の詩「歡酒」を思い出す。

歡君金屈巵   コノサカヅキヲ受ケテクレ
満酌不須辭   ドウゾナミナミツガセテオクレ
花發多風雨   ハナニアラシノタトエモアルゾ
人生足別離   「サヨナラ」ダケガ人生ダ

この世は、別れに満ちている。私は、中学生のころに、父に
「哀しい別れというものを味わったことのない人間とは、おつきあいしたくない」
と言われたことがある。
中学生の私には、その言葉の意味がわからなかった。
十八歳のとき、少しわかるようになり、二十歳では、自分がそのような別れを味わい、
二十三歳のとき、父が死んだ。
三十歳では、もっとわかるようになり、四十歳でまたあらたにわかり、五十歳で...。
私が長生きすれば、さらに深く見えてくるものがあるにちがいない。
(後略)

自分自身、さまざまな「別れ」を経験してきたが...
「別れ」が人間のグラスを、ほんの少し大きくしてくれる。
という言葉の意味が少しだけわかる年齢になったように思う。
これからも訪れるであろう、数限りない別れ...
そのたびにムイカリエンテにも何か深いものが見えてくるのだろうか?
漁船が作った波は、いつの間にか跡形もなく消え、
静かな海面の上で、光の粒が踊っていた。


足元にカニが現れる
遠くを見やるようなカニの視線は、なにを見ているのだろう...