『ひとたびはポプラに臥す』

三重の田舎にいたころは、少し山道を入れば
きれいな星が見えたものだが... 
(写真はその時のもの→)
横浜では、空が明るくて星の数は極端に少ない。




星空は、時間や空間を超えて
遠い過去に出会った人々のことを思い起こさせる。
そして星空というと宮本輝著『ひとたびはポプラに臥す』の場面を思い出す。
それはパキスタンのチラスというインダス河の岸部にある街の夜である。

星が夜空に五つ六つと瞬き始めたと思ううちに、それらはまるでにょきにょきと音を立てるようにして
漆黒の闇全体を覆い、金色の夜空にところどころ黒い穴があいているといった様相を呈したのだった。
フンザの星には驚愕したが、そのフンザの星どころではない
夜空全体が星であって、インダス河の激流の轟音が、星々を称える交響楽に聞こえる。
インダス河の奏でる交響楽によって夜空の幕があき、宇宙のすべての星が現れた。
私は本気でそう感じた。(中略)
うねる銀河はいっそう近くにまで迫ってきて、もはやそれは天空だけでなく、
私をとりまく世界全体と化し、私は宇宙の坩堝に漂い始めたのだった。
それにしても、なぜ星々は、人間に、死んだ近しい人々を思い出させるのであろう。
父や母の顔や、そのほのかな体臭までが、銀河の筒の中から甦ってくる。

この後、宮本輝氏の少年時代の思い出が綴られている。
当時流行った「星の流れに」という歌のサビ「こんな女に誰がした」というところを
宮本少年が口ずさむと...突然父が怒って宮本少年の頬を張り飛ばす。
「誰のせいでもない、自分でなったのだ」と...そして、「そんな歌を二度と歌うな」と...
少し長いが引用したい。

「言いたいことがあったら、わしの目を見て、正しい日本語で論陣を張れ。
 なんのために学校に行っとるんじゃ。小学校五年間の教育で、おまえはいったい何を得たんじゃ」
そのときの父の顔が星々の坩堝の中にあって、私はひとり声を殺して笑った。
...お父ちゃん、小学校五年生の子供に、それは無茶というもんですよ。
私はチラスのホテルのテラスで、不思議な幸福感に包まれながら、そう言い返すしかなかった。
その父は、私が大学三年生のときに、精神病院で死んだ。
脳軟化症で倒れ、その病気のせいで失語症となり、看護婦に箸やスリッパを投げつけるようになって
病院側から、治療費のいらない別の病院を紹介しようと申し出てくれたのだが、
貧窮の極みにあった私も母も、そこが精神病院であるとは夢にも思わず、
ありがたくその申し出を受けたのだった。(中略)
いったい幾つの鍵のかかった病室の前を通って、父のいる大部屋へと歩いていったことだろう。
三、四十人の患者がいる部屋の鍵をあけ、看護婦が指差すところを見ると、
その大部屋の一番奥のベッドに昏睡状態の父が横たわっていて、棍棒を持って各部屋を巡回している看護夫が、
「宮本くん、宮本くん、嫁はんと息子が来たでェ」
と大声で父の耳元で言いながら、乱暴に父の体をゆすった。
「この野郎、ぶっ殺してやるぞ」
私が人に対して本気で殺意を抱いたのは、あとにも先にも、そのときだけだったかもしれない。
病室のドアのところから父のいるベッドまでは、歩いて二、三十歩だった。
十円玉を持った手をひたすら左右に振りつづけている人、
私に性器を見せようとして、看護夫に棍棒で殴られる人、カレンダーに向かって喋りつづける人。
そのような人たちのなかを歩いて行くわずか数秒のあいだに、
父の、この精神病院の大部屋の、最も奥のベッドへと至る道筋が、私の心に延々とつらなってきた。
剛毅で繊細で、生命力の塊のようで、人の世話ばかり焼き、企んで人を騙すことの決してなかった父が、
なぜここで死んでいくのか。
私は一歩足を前に進めるごとに、「ああ、そうなのか」と思ったのだった。
一歩、一歩、父に近づくごとに、私には何かがわかりつづけていた。
だが、いったい何がわかりつづけていたのか、私には言葉にすることができなかった。
あの精神病院の大部屋の、頑丈な鍵がかかったドアから父のベッドまでの二、三十歩....。時間にして数秒...。
それなくして、作家としての私など存在しない。
だが、その二、三十歩、その数秒も、いまこのチラスの星々とともに宇宙からこぼれ出て
インダス河に溢れかえるようにして流れていくのだった。
「お父ちゃん、俺が仇を討ったるで」
父が死んだとき、二十一歳の私が胸の中でつぶやいた言葉も、
父を騙し、裏切った幾人かの人間たちの忘れられない顔々も、
インダス河と一緒に遠くアラビア海へと流れていく。
「お父ちゃん、俺が仇を討ったるで」
私はその言葉だけを、インダス河から掬い上げて、チラスのすさまじい星々へと戻った。
                         宮本輝『ひとたびはポプラに臥す』?

死ぬまでに一度でいいから、これほどに凄まじい星々を見てみたい。
否、死ぬということは、生命が宇宙の中に融け込んでいくことなのかもしれない。
そうであれば尚更、漆黒の闇の中に身を委ねて、宇宙の大きな慈愛の中で浮遊してみたい。
澄みきった生命になったとき、自分は誰のことを想うのだろうか?
生命のからくりを観じることができるのだろうか?