季節はずれのゴーヤ

今年初めて植えたゴーヤ
真夏にできた実は3つとも
大きくなるまえに黄色く変色してしまった。
夏が終わって葉が変色しはじめたので
今年は駄目だったかなと思ったら
フェンスの隙間に潜り込むように実ができていた。
隙間から引っ張り出しておいたら、大きくなった。
ただでさえ醜い形状が、さらに不格好になって
秋の陽射しを浴びている。


『水の下の石』 山本周五郎
深川安楽亭 (新潮文庫)
不器用な男の物語である。
加行小弥太 鳥居家の足軽。いつも目立たず、手柄もない。
顎が張り出していることから仲間に「あご」と呼ばれ、いつも馬鹿にされている。
その小弥太が、長篠の戦いの後、興福寺城攻めの決死隊に選ばれる。
夜中に焼けた橋げたを渡って、敵城に忍び込んで闘いの火ぶたを切らねばならない。
しかし、橋げたを這って渡る途中で、彼のしがみついた部分が折れてもろとも濠に落ちてしまう。
ここで浮かび上がれば、仲間が発見され皆殺しになって、作戦も頓挫する。
仲間は身を伏せて見つからないように祈る。
結局、小弥太は浮かび上がらず、攻城も成功に終わって、勝利を勝ち取る。
翌朝、戦いが終わったが、どこかへ逃げたと思われた小弥太がみつからない。
指揮官の竹沢図書助が不審に思い、部下に命じて濠の水の中を探す。
小弥太は水の下の大きな石にしがみついたまま死んでいた。
それを聞いて仲間は格好の悪い小弥太の姿を思い浮かべ、皆が苦笑する。
そこで、図書助が語り出す。

「小弥太は不幸にも焼けて脆くなった桁が折れて濠に落ちた、もし浮き上がれば、
自分が城兵に狙撃されるのはいうまでもなく、橋桁の上にいる五人も発見されるだろう。
浮き上がってはならなかった、どんなことをしても、浮き上がってはならなかったのだ。
それで彼は石に噛り付いて死んだ」「....」
「他に方法がなかったか...(中略)...ただ一つ、水底で死にさえすれば確実だ、
そこで死にさえすればよい、万一の僥倖をたのむよりおのれを殺すことが
その場合もっとも確かな方法だった、かれは、その確かな方法をとったのだ」
「戦場のまっただなかで、敵と切りむすんで死ぬことは、もののふにとってさしたる難事ではない」
図書助は静かに続ける。
「けれども水底の石に噛りついて、みずから溺れ死ぬということは考えるほどたやすくはないぞ、
心はいかに不退転でもからだには苦痛に堪える限度がある。
呼吸が詰まって来、耳、鼻、口から水がはいって、がまんも切れ神も悩乱するとき、
それをふみ超えて溺れ死ぬということはなみたいていのことではない、どんなに困難であるか、
みんな自分をその水底に置いて考えてみろ」兵たちは眼を伏せ、頭を垂れた、
図書助はふるえてくる声を抑えながら間をおいて言葉を継いだ。
「今日の勝ち戦は小弥太のたまものといってもよいだろう、そして戦場にはいつも、
こういう見えざる死が必ずある、おのれを殺して味方を勝に導く、しかも人の眼にはつかない
(中略)
つわもの一人ひとりにこの覚悟があってこそ戦に勝つのだ、
そしてこれこそはまことに壮烈というべきなのだ」
隅のほうで堪りかねたように嗚咽のこえが起こり、それが輪座した人々のうえに次ぎ次ぎと伝わっていった。

名もない一庶民のために筆を奮い続けた山本周五郎らしい名作である。
不器用な一人の人間によって、大きな歴史の流れが変わることもある。
教科書や歴史書で読んできた歴史は、英雄と言われる人々の武勇伝で、
勝者に都合の良いように後から脚色されていることも多いという。
しかし真実は、名もない民衆の中にある。
必死の一人の闘いが、勝利を呼んだことだって、数限りなくあるはずである。


また、この物語の最初の部分に出てくる一行に勝利の鉄則が語られる。

戦は生きもので決定的なところへ行くまで勝敗はわからない、
そして勝敗を決するものは勝つという確信だ、勝つと信ずるものが必ず勝つんだ

それは一人の人間の内部における闘いにも通じる。勝つと決めて、最後まで信じた人間が勝つ。
自分を信じて、勝つと決めて歩いていきたい。