花園にて「生死」を考える

今日は伊勢原に出かけて、芝桜を鑑賞。
去年、神戸三田で見たのに比べると
ちょっと寂しいが...↓
http://d.hatena.ne.jp/mui_caliente/20070426

土手を下りて、田んぼの脇のあぜ道に座って読書。
田植え前の土の上にはレンゲソウのピンクの絨毯が広がる。

ずいぶん前に読み始めた北方水滸伝。途中でブランクがあって、今は15巻に入ったところである。
水滸伝 15 折戟の章(集英社文庫 き 3-58)
官軍との闘いは熾烈を極め、多くの英雄たちが命を落として行く。
その死に様に一つとして無駄はない。北方謙三らしく、すべてがハードボイルドで貫かれている。


水滸伝の発端は、宋代の正式な歴史書に出てくる36人の男達のクーデターがモチーフになっている。
これを小説家したのが水滸伝で、伏魔殿から飛び出した108人の魔王達が豪傑になって現れ
やがて梁山泊終結して宋江を中心に、腐った役人によって苦しむ民衆のために闘っていくという小説
現実と神話が入り乱れ、登場人物が多いうえに作者も何人かいて、整合性もとれない部分が多い。
日本でも吉川英治柴田錬三郎らが書いているが原作に沿っていて、痛快ではあるがわかりにくいところもある。
北方謙三郎の水滸伝は、これらを徹底的にリメイクし整合性もきちんととって百数十人の登場人物に
しっかりとした人格を与え、生き生きと描き出している。
ひとりひとりに、それぞれの人生があり、苦しみや悲しみを抱えながら『替天行道』という思想を拠り所に
続々と革命の陣列に加わってくる。
軍人もいる盗賊もいる農民も商人も医者も..役人もいる。それぞれが適材適所に配置され、国を作っていく。
思想的基盤をもとにして、それぞれの使命を自覚し、命を燃やしながら革命に突き進んでいく。
宋というとてつもない権力に対峙していくのである。
作者は、この水滸伝を通して、最後のロマンチックな革命と言われた「キューバ革命」を描きたかったという。
原作を粉々に噛み砕いて、そこに革命精神を吹き込みなおして、緻密な作業で組み上げていく。
想像しただけで気の遠くなるような作業である。
腐った官軍に比べて志があり力もある梁山泊軍は少数ながら快勝を続けていく。
しかし後半に入って宋は、ケタ違いな軍力を持って梁山泊を潰しにかかる。
愛すべき英雄が一人また一人と死んでいく。読者としては身を切られるような痛みと悲しみを感じる。

このように愛着をこめて魂を吹き込んできた多くのキャラクターが次々に死んで行く。
「俺の水滸伝は死ぬんだよ」
やはりインタビュー時に呟かれた言葉だった。108人が勢ぞろいするまで誰も死なない原典と違い
序盤から重要な人物が何人も倒れていく。その点に関して原典を知る読者からだいぶ文句があったらしい
だが、北方謙三は一言つぶやくのだ。
「俺の水滸伝は死ぬんだよ」
そしてメールマガジンでもこう書いている。
「人の死を、いまは語るまい。いずれ、どこで語るにせよ。死は語るべきなのか、黙して受け止めるべきなのか
これは現実の人生でも、しばしば直面する問題だ。
水滸伝に関しては、俺は反吐が出るまで語るつもりでいる。生きるだけ生きさせた俺の責務だと思うのだ。
生きている人間に対する責務など、適当なものだが、死者に対する責務は、自分に一片の妥協も許す気はない。
                         北方謙三水滸伝』第13巻 解説より

人間にとって、死は一定である。誰人も避けることはできない。
水滸伝の英雄たちの死に様は、壮絶で美しい。それは何故だろう?
人間らしい苦悩や悲哀を抱えながらも、人生の師に出会い、かけがえのない同志に出会い、
使命を自覚して、脇目も振らずに生き切ることができたからではないか。
いかに死ぬかはいかに生きるかである。
15巻まで水滸伝を読み続けてきて、ムイカリエンテの心は、ただただそれだけを見てきた。
あと4巻で終わってしまうのかと考えれば、もう少しゆっくり読もうかとさえ思う。
人生も間違えなく後半戦。仕事の上では一つの節を刻むことができた。
さあ、これからいかに生きるのか?
明日死ぬかもしれないという覚悟まで正直できていないが...志を持って、まっすぐに生きて行こう。

認識は、わけ知りを作るだけであった。
わけ知りには、志がない。志がないところに、社会の前進はないのである。
志というものは、現実からわずかばかり宙に浮くだけに、花がそうであるように香気がある。
                          司馬遼太郎菜の花の沖