宮本輝の作品の中でも、
ムイカリエンテが最も好きなタイトルの作品である
天野志穂子は、6歳で結核に冒され、北軽井沢で18年間の闘病生活を送っていた。
あるとき志穂子の元に舞い込んだ、たった一枚の絵葉書が、彼女に奇跡をもたらす。
絵葉書には、ポルトガルのロカ岬を写した写真が印刷されてあり、
裏には〈梶井克哉〉という差出人の氏名と、次の文章がしたためられていた。
いまポルトガルのリスボンにいます。きのう、ロカ岬というところに行ってきました。
ヨーロッパの最西端にあるという岬です。
そこに石碑が建っていて、碑文が刻みこまれています。日本語に訳すと、〈ここに地終わり 海始まる〉という意味だそうです。
大西洋からのものすごい風にあおられながら、断崖に立って眼下の荒れる海に見入り、
北軽井沢の病院で見たあなたのことを思いました。
あした、トルコのイスタンブールへ行きます。
一日も早く病気に勝ってください。
ラブレターとしかとらえよのないこの絵葉書...ただ、志穂子は差出人にまったく心当たりがなかった。
しかし、この日を境に志穂子の胸に長い年月巣食い続けた結核が少しずつ着実に消えていく。
延々と大陸を歩いてきた旅人がこの最果ての岬にたどりつくシーンを思い浮かべる。
そこには広大な大西洋が広がっているのだ。
この碑文は、ポルトガルの詩人が大航海時代を詠った叙事詩の一行であるが...
この小説の中で、この一行は人の心の中の風景を叙情詩として謳いあげている。
「ここに地終わり 海始まる」言葉の中には、眼前に広がる海への限りない希望がこめられているように思う。
自分の人生の中で、どの時点がこの岬にあたるのかはわからない。
しかし、勇気と希望を持てば、今がその時ととらえられるのではないだろうか?
心の旅は自由である。
人生の中で、この岬に何度立てるのか...その覚悟の中に人生の広がりがあるようにも思える。
どこまでいっても"勇気"と"希望"が大事なのだ。
さらに、宮本輝があとがきに書いた言葉の中には大事なキーワードがある。
幸福という料理は、不幸という俎板(まないた)の上で調理されるものなのだと、私はいつも思っています。<ここに地終わり 海始まる>の若い主人公を、
幼児から18年間も結核という病気で封じ込めたのちに、大都会の汚辱の渦に放り出したのは、
私が、この小説の主人公を豊かな人格を持つ幸福な女性にしたかったからなのですが、
はたして、彼女が幸福になったかどうかは分明ではありません。
なぜなら、私は彼女を<過程>もしくは<途上>で置き去りにして筆を置いたからです。
幸福を願いつつ、小説の幕を下ろしました。
幸福というのは豊かな人格の上にこそ花咲くものであり、その根底には不幸との闘いがある。
人格を磨かねばならぬ...強さも優しさも勇気も明るさも含めて、
結局は人格を磨くことが最も大事なことかもしれない。
それが「ムイカリエンテへの道」のテーマではないか...
自身を振り返れば、まだまだ臆病で弱々しい人間である。
磨くにはどうするか...不幸というまな板の上でもがいて闘って、人の中で磨いていくしかないのだと思う。
さあ、広大な海原への気概で...